16 隙



 83階も風が強いけども、82階よりずいぶんマシで、命綱のロープを繋がないでも通路が渡れそうだ。


 結い目を解いで、巻きつけてたロープを外すと、往梯ゆきはしがくるくる器用にまとめていく。


 締め付けから開放されて気分がいい。あたしはおおきく両手を広げると、地上350メートルに吹く冷たい風を、肺の隅々までいきわたらせた。


「空気がうんめぇ」


 世界の空気全部を吸いつくしてやる。


「ちいねぇ。オヤジくせー」

「かび臭いのは同じだろ。マスクごしなんだから」


 大地と往梯ゆきはしが、首をかしげて、つまらない正論を吐いた。ロマンがわかんない奴らだね。あたしは、すーはーすーはー、想い存分あじわった。


「ふー満喫した。大地。水縄から水とってきて」


 水縄とは、雲の中で湿らせた縄のこと。マウントの外壁には、はるか上と雲の下に設置してある大きな滑車がいくつもある。それは風でくるくる回って、雲のなかで染みこんだ水分を上で絞って貯めるのだ。国旗を掲揚するロープみたいな仕組みだって、叔母さんが説明してくれたことがあるけど、よくわからない。


「風が弱いからって油断するなよ」


 風はきまぐれだと、念押しする。


「油断て。飛ばされたちいねぇじゃねーか」

「るっさい、早くいけ」

「ほほーい」


 水とりのビニルを片手にへっぴり腰で壁をつたっていく大地を見送って、あたしは、ジャンバー内ポケットに手を入れ、収めてあった小さな本をとりだした。ページを破かないように、ていねいにめくっていく。


「なんだそのボロ紙」

「見るな。大切な宝物なんだから」


 首を延ばし、覗いてくる往梯ゆきはしに背を向けると、自分だけには見えるよう、床に置いて覆いかぶさる。ほとんど暗記してるから、わずかな光で十分読める。取り出したのは、確認したかっただけなのだ。


「けっちくせーの。まあいい、とっとと動いて大地に合流するぞ。またすぐ追手がくる」

「なんで追っ手? 上に逃げた子供なんか、無視するもんだろ」


 食うや食わずの生活だけは、大人も子供も平等だ。食うためなら、どんなチャンスも逃さなんだけど、大人は腹が減ることは避けたがる。命さえ危ない風をつっきってまで、追いかけてはこない。


「それがそうでもない。相手によっては、な」


 にたりと、意味深に往梯ゆきはしは微笑み、あたしも笑みを返した。

 怪しいヤツだと思ってたが、正体を現したか。

 疑心暗鬼が解ければ、すっきりさっぱり、別行動ができる。ショルダーバッグからナイフを取り出して、油断なく構えた。


「あたしのこと、知ってたのか」


 カタをつけよう。気苦労がひとつ減れば、それだけ身軽。

 ついでにこいつが着けてる酸素器具オキソデバイスもいただくと決める。

 小さいあたしは、敵の足を狙うのが常套手段。じゃあ体格差のない場合はどうするかというと、わざと視線を外す。

 そうすると、高い確率で向うの動きを誘導することができる。


「俺はなんでも知ってる。そんなことしても隙ができるのはそっちだ。殺し合いは楽しそうだが、後にしろ。いくぞ」


「え?」


 そう言うなり背を向けると、往梯ゆきはしは大地のほうへと、壁を伝っていく。

 刺すつもりで背中を睨んだが隙がない。飛び掛かれば、こちらが殺されそうな殺気さえある。これはムリだ。しかたなく、ナイフを仕舞った。

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