第3話 涙のお子様ランチ(前日譚)

 この町で定食屋を始めて、もう三十年。

 繁盛店とは言えないまでも、多くの常連さんに助けられて、細く長く営業を続けてきた。


 しかし、それももうお終いだ。この夏いっぱいで店を畳もうと思っている。


 開店から今まで、ずっと夫婦二人三脚でやってきたのに、先日、妻が出て行ってしまった。熟年離婚は珍しい話でもないが、まさか妻に出て行かれるとは思いもしなかった。


 確かに贅沢は出来ないし、苦労はかけたと思うが、それでも結婚してからの三十年間、ずっと手を取り合って生きてきた。私はそんな妻を愛していたし、妻も私を愛してくれていると思っていた。


「別れてください」の一言だけが書かれたメモと記入済の離婚届を残し、先日、突然姿を消した。


 考えてみても、理由が分からない。

 理由を知りたくて電話をしても、妻は私からの着信を無視し続けている。妻の両親は既に他界しているし、親戚もいない。娘夫婦の所かと思い連絡してみたが、そこにもいない。どこに行ったのかも分からない。


 このまま定食屋を続けるにしても一人では店を回せないし、かといってバイトを雇う気にもならない。

 そもそも妻のいない生活には耐えられない。

 店を畳むのは寂しいし、常連さんたちのことを考えると心苦しいが、私は妻を取り戻すことを最優先に考えたい。


 九月に入ってすぐ、久しぶりに新規のお客さんが訪れた。常連さんが八割九割を占めるこの店にとって、新規客は珍しいことだ。


 三十代くらいの両親と中学生、小学生くらいの兄弟の四人家族だろうか。なんでも、最近この付近に引っ越してきたらしい。


 店を畳むので、常連さんになってもらうことはもう出来ないが、せめて美味しい料理を食べて欲しい。


「なんにしますか?」


「えーっと、カツ丼ひとつ、リョウコは?」

「私は焼き魚定食で」


 両親はそう言って、子供たちがメニュー表を取り合うのを微笑みながら見つめている。


和真かずまは何にする?」

「僕は……僕もカツ丼で」


 中学生くらいの男の子がそう言った。


「拓真は?」

「おれは、えーっと、お子様ランチ」


 小学生くらいの男の子がそう言った。


「おい、拓真、お子様ランチなんかないぞ。他のにしなさい」

「えー?お子様ランチがいいっ」


 確かにメニュー表にはお子様ランチはない。常連さんは工事現場の作業員とか近所の年寄りばかりなので、子供用のメニューはいつしか作らなくなっていた。


 ガッカリさせちまったな、どうせ最後だから、お客さんには喜んでもらいたい。


「お子様ランチ、あるよっ」

「ほら、あるってさ」少年はニカッと笑った。


「わざわざ、ありがとうございます」と両親に礼を言われた。


 一人で四人前を作るのは楽ではないが、ちょうど他の客がいない時間帯だったので助かった。


 国旗付きの爪楊枝が見当たらなかったのでお子様ランチ感は出せなかったが、ケチャップ味のオムライスとタコさんウインナー、エビフライと唐揚げでそれらしく盛り付けた。味には元々自信がある。後は少年の口に合うかどうかだ。


「いただきまーす」拓真と呼ばれた少年はひと口食べると、笑顔で「美味しいっ」と言い、あっという間に一皿をたいらげた。


「ねー、おじさん、なんで泣いてるの?」


 拓真くんにそう言われて、自分が泣いていることに気付いた。


「ああ、今日でこの店を畳むんだよ」


「潰れるの?お客さんいないもんね……」

「拓真、失礼なこといわないの、ごめんなさいね」


「いや、いいんですよ。妻にね、出て行かれまして。一人で営業するのは難しいので」


「写真の人が奥さんですか?優しそうな人すね」と父親がそう言って、レジ横の写真を指差した。


「奥さん何で出ていったの?浮気したの?」

「拓真、黙ってなさい」


「浮気かあ、私は妻一筋ですよ。妻にしても浮気なんかするような奴じゃないです」


「奥さん、何歳?」と拓真くんに聞かれた。


 聞かれて、ふと考えてしまった。

 何歳になったんだろうか。妻とは六つほど歳が離れていた。自分の歳から逆算しないとすぐには答えることが出来なかった。


「私が今年で六十だから、えーっと、五十四歳かな」


「誕生日はいつなの?」

「誕生日?えーっと、たしか八月の、何日だったかな」

「誕生日おめでとう、って言わなかったの?」


 そうだ、もう何年も妻の誕生日を祝っていない。忙しさを言い訳にして、そんなことも忘れていた。もしかしたらそれが妻が出て行った原因なのか。


「拓真くん? ありがとう、妻に『おめでとう』を言わなくちゃいけないね。教えてくれてありがとう」


「コックさん、年の差なんて関係ないよね。六歳なんて誤差だよね」


 コックさんなんて言われるのは初めてで、背中が痒くなる感じがした。拓真くんは変なことを言う子だと思った。


「まあ、この歳になると五歳も十歳もそんなに関係ない気がするよ」


 それを聞いた拓真くんは妙に嬉しそうに笑った。



 四人家族を見送った後、のれんを店に仕舞った。

 妻に謝りたい。そして感謝を伝えたい。


 娘夫婦に改めて連絡すると、妻を匿っていたと白状した。私は妻に誕生日おめでとうと伝え、感謝と謝罪を伝えた。そして愛していると伝えた。


 九月になり、妻が何食わぬ顔で戻ってきてくれた。

 私たちは、この定食屋を続けることにした。


 拓真くんにも、礼をしたい。

 あの家族は常連さんになってくれるだろうか。


 今度、お子様ランチを注文された時のために、きちんと国旗付きの爪楊枝を準備しておこう。


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