8月31日 アーモンドバターバゲットと、ポルチーニクリームのタリアテッレ

 午後から降り出した雨のせいもあって、気温の上がりきらない日。急な秋の気配に狼狽えてしまう。日が落ちれば鈴虫の声。今宵は満月だというが、島根の空には見えない。八月が去っていく。


 昨日よりは多少マシな体調だが、立っているとまだ血の気が引く。料理するには辛い。

 夕飯は夫と外へ食べに行くことにした。なんだかんだで食べたことのない、『モッチモパスタ』というチェーン店へ。

 元は姫路の会社で、関東にも関西にも店はあるようである。が、なかなか東京だと東村山市などなかなか奥まったところにしか無いため、山陰に来るまで存在を知らなかった。生パスタが売りのカジュアルなレストランとのことで、一度行ってみようと思っていたのだ。

 ペアセット、という二人向けのディナーセットがあるので注文してみた。

 シェアするタイプのシーザーサラダは、ごく普通の味。ポルチーニ茸が具にもクリームにも入ったソースは、名前に偽りのない味わい。タリアテッレは確かにモチモチとした食感があるが、こちらも普通。夫の頼んだリングイネの方が、生パスタならではの美味しさを楽しめた。

 特に印象に残ったのは、『モッチモパスタ』のもう一つの名物、ロングバゲットだった。陶器の可愛らしいビアマグからにょっきりと伸びた焼きたてのバゲット。まず見た目のインパクトが強い。そして定番のガーリックやハチミツなど八種類のフレーバーから選べるのが良い。

 私はアーモンドバターにしたのだが、熱々のバゲットに香ばしいアーモンドバターがじゅわりと染み込み、なかなかに美味しい。バゲットの名で売られてはいるが、軽い力で千切れるし、噛むのにもさして顎を使わない、バタール程度の柔らかさである。だからこそ、甘いフレーバーもよく合うように思う。


 バゲットでは無いが、アーモンドバタートーストには少し思い出がある。

 東京で会社勤めをしていた頃、別部署が起こしたトラブルに全社で対応しなければならなくなり、そのフォロー要員になってしまった私は、東海のとある地方都市にしばらく派遣されることになってしまった。その為に、数ヶ月前から取って楽しみにしていた舞台のチケットを泣く泣く譲渡し、当時の恋人との温泉旅行を延期するなど、行く前から散々だった。

 私は荒れた。待っていたのは精神を削られる仕事と、孤独なホテル暮らし。昼休みは短く、近所で提供も早いサイゼリヤのランチメニューだけが頼りだった。早々に飽きた。夜、一人で気軽に入れる飲食店の選択肢は本当に少ない。弁当屋もろくに無い。ストレスからか恋人とも電話で険悪になる始末。

 そんなときに見つけたモーニングが、私を救ってくれたのだった。週に一度、土曜日か日曜日にゆったりといただく和風カフェのモーニング。珈琲に、野菜サラダ、ポテトサラダ、ケチャップパスタ、唐揚げ、オムレツ、フルーツ、そして選べるトーストがついた贅沢なセットである。これが確か六百円を切っていたのだから、東海には恐れ入る。

 私はいつも、アーモンドトーストを頼んでいた。バタートーストも小倉マーガリンもあったけれど、この店のアーモンドバターがとても好きだった。アーモンドの粒感をしっかりと残しつつ、まったりとクリーミーなアーモンドバターはおそらく自家製。それを厚切りパンに塗って焦がさない程度に焼いた、もっちりとしたトースト。あれを食べるのを希望の光に、平日をなんとか過ごしていた。温かい珈琲と共に齧ると、少し涙ぐむくらいに美味しかった。

 その店は夜には定食も出していたので、ひと月の間に随分と世話になり、当然顔も覚えられていた。その地を遂に離れるという日、最後の晩餐もこの店で食べた。「明日、発つんです」と、レジで女将さんに挨拶すると、キッチンから店主も出てきてくれた。本当に温かい店で、この土地には辛い思い出ばかりだったが、そのカフェだけはいつか再訪したいと思っていた。

 しかし、それきりである。再び近くを訪れたときに調べてみると、そのカフェは閉業していた。だからもう、あのアーモンドバタートーストは食べられない。


 今日のアーモンドバターバゲットは、東海で食べたものとは全く似てはいないのだが、久しぶりにアーモンドバターを食べてつい、思い出してしまった。ちゃんと美味しかったものだから。


 半分は日記でなく思い出語りになってしまったが、どうかご容赦願いたい。

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