第五夜 メリーさん 7
その後も、『メリーさん』は日本各地を転々としながらオッサンから逃げ回った。
オッサンはどこにいようとも必ず現れ、あと少しのところで『メリーさん』を逃がす。
『トムとジェリー』じみた追いかけっこの中で、『メリーさん』の中にはオッサンに対する信頼のようなものが芽生えていた。
どこにいたって駆け付けてくれる、かけがえのない存在。
オッサンが『メリーさん』を求めるように、『メリーさん』もまたオッサンを求めるようになったのだ。
しかしそれはオッサンにはないしょにしておいた。悟られてもいけない。オッサンがやって来るのを期待していることを感づかれてはならないのだ。
あくまでこれは楽しいゲームであり、『メリーさん』のアイデンティティ確認のための儀式だった。
『試し行為』と呼ばれているものとほぼ同じであることはわかっている。
わかっていてなお、『メリーさん』はこの鬼ごっこをやめることができなかった。
ふたりは日本中をめぐり、とうとう『メリーさん』は北海道最北の地、稚内までたどり着いてしまった。
春先でも冷たい風が吹く稚内の『日本最北の地』の石碑の前でぱしゃりと写真を撮る。それを添付して、『メリーさん』はオッサンにlineを送った。
『私、メリーさん。今稚内の日本最北の地にいるの』
送信完了。さて、昨日まで鹿児島にいたオッサンは稚内まで来られるのだろうか?
多少時間はかかるかもしれないが、必ず来るだろう。そのときはまた、逃げればいい。
今度は国外に逃げようか? とはいえ、パスポートなど持っていない『メリーさん』にとって、日本国外への逃走経路の確保は難しかった。
流れ流れてよくここまでたどり着いたものだ。感慨深く思いながら、『メリーさん』はオッサンが来るまで稚内を観光しようとした。
土産物屋でも冷やかして、お茶でもして時間を潰そう。
そう考えていた『メリーさん』のスマホが通知音を鳴らす。
『今どこ!?』
『迎えに行くからね!』
『そこで待ってて!』
『今度こそいっしょに帰ろう!』
『愛してるよ!』
『お願いだから逃げないで』
『お願いします』
『大丈夫だからね』
オッサンからの鬼lineだ。居場所を知らせるとすぐこれだった。
なにが大丈夫なのかまったくわからないが、少なくともオッサンはここへ来る。絶対にだ。
それまでは少しぶらぶらしてみよう。日本最北の地なんて初めてだ。
港まで出ると、海猫がみゃあみゃあと鳴いていた。何羽も港を飛び交い、暗い鉛の色をした海の上を飛び回っている。
スタバで買ったホットコーヒーを片手に、『メリーさん』はその光景を眺めていた。港の公園には遅咲きの桜がほころんでおり、ちょうどいい休憩スペースとなっている。
ベンチに座って、『メリーさん』は飽きることなく海を見詰めていた。
そういえば、最初はオッサンのことを心底おそれていたものだ。こんな『怪異』以上に『怪異』じみた人間がいるとは思わなかった。
それが今や、『メリーさん』の方がオッサンを翻弄している。人間、情が絡むと弱いものである。
『メリーさん』はオッサンに死ぬまで追いかけ続けてもらいたかった。『君がいないと死んじゃう』と言っていたからには、追いかけなくなったそのときはオッサンは死ぬので、その本望は叶ったと言える。
果てしのない追いかけっこは『試し行為』でしかなかったが、『メリーさん』はそれで満足していた。追いかけられている内は、自分が求められるべき存在であることを確認できるからである。
もっと、もっと。
死ぬほど求めて。
逃げれば逃げるほど、その思いは強くなった。
かわいそうなオッサンは、『メリーさん』の欲求に踊らされるがままに日本全国を行脚しているのだ。つくづくタチの悪い『怪異』につかまったなぁと自分でも思う。
本人も、監禁していた当初からは考えもつかない展開だっただろう。それは『メリーさん』も同じだ。
逃げることが、いつしか手段から目的へと変わってしまったのだ。今や追いかけっこそのものがふたりを繋ぎ止めるきずなだった。
捕まってはいけないし、この思いを悟られてはいけないし、期待していることがバレることもあってはいけない。
逆に言えば、それさえクリアすれば永遠に鬼ごっこは続くのだ。
終わりのない鬼ごっこ。自分で考えておいて、『メリーさん』の胸にふととてつもない虚無感が押し寄せた。
なにか非常に不毛なことをしている気がしたのだ。
決着をつけるべきことをいつまでも保留にしているような、そんな感覚だ。
時間もあることだし、『メリーさん』はコーヒーを飲みながらそれについて考えることにした。
オッサンが追いかけることをやめてしまったら、きっと『メリーさん』はかなしい。それは、オッサンが『メリーさん』への興味を失ったことを意味するからだ。
オッサンの関心が心底欲しかった。いわば『かまってちゃん』だ。だからこそ『試し行為』などということをするのだ。
普通にいっしょに暮らしていたら、いつかオッサンの気持ちが変わってしまうかもしれない。それがこわくて、『メリーさん』は逃げた。オッサンからも、現実からも。
なにか、確固たる約束が欲しかった。死ぬまで『メリーさん』を一番として扱ってくれるという約束が。
それさえあれば、『メリーさん』はよろこんでオッサンに捕まるだろう。いっしょに暮らすこともいとわない。
ならば、その『約束』というのはなんなのか?
『怪異』である『メリーさん』に結婚という契約はできない。真似事ならできるかもしれないが、あくまでそれは形式である。
なにかひとつ、オッサンが『メリーさん』を死ぬまで離さないという確証が欲しかった。
でなければ、『メリーさん』はホールドアップしない。
この追いかけっこを終わらせる、決定的ななにかがあれば。
いや、答えならすでに出ているのではないか?
それを自覚するのがこわいのではないか?
この思いを認めるのは、オッサンからの『約束』と引き換えでなくてはならない。でなければこんな壊れ物みたいな感情、認めるわけにはいかないのだ。
『メリーさん』は初めて思った。
『捕まえてほしい』、と。
そんな風に思ってコーヒーを飲み終えると、にわかに海猫たちが騒がしく飛び立っていった。ざあ、と桜の木を風が揺らす。
予感めいたものに突き動かされて、『メリーさん』はスマホを覗いた。
lineの通知が来る。
詳細画面を開くと、オッサンから一言だけ。
『みぃつけた』。
次の瞬間、ベンチに座っていた『メリーさん』を後ろから抱きしめる腕があった。知っている腕だ。
本来後ろにいるはずの『メリーさん』が後ろを取られるなんて、前代未聞のスキャンダルだった。誰にも言えないな、と苦笑する。
「やっとつかまえた」
背後でオッサンが静かにつぶやく。
「ずいぶんと早かったの」
『メリーさん』もまた、捕まったにしては穏やかな声音で返した。
「当然だよ。君のいるところにならいつだって駆け付ける。そう言っただろう?」
「それにしたって早すぎるの」
「ちょっと飛ばしただけだよ」
そうささやくと、オッサンは『メリーさん』を抱きしめる腕にちからを込めて、ぎゅっと抱きすくめた。
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