第四夜 人面犬 7
いよいよからだが動かなくなってきた。視界はぼやけ、すべてがくぐもった音に聞こえ、頭がぼうっとする。
ぼんやりしているのはモルヒネのせいだった。ご主人は『人面犬』の願いよりも、その苦痛を取り除くことを選んだ。それが正解だったのかどうかは誰にもわからないが、少なくとも今、『人面犬』は穏やかな気持ちで最期の時を迎えようとしていた。
お気に入りの毛布の上に丸まってご主人にやさしくなでられていると、ふと古ぼけたアパートの窓から桜の花びらが舞い込んできた。
「……あったかなってきた思たら、もうそんな時期か……去年、もっと見とけばよかったな」
こくり、舟をこぐようにうなずく『人面犬』。もうマトモにしゃべることすら難しかった。
いつくしむような手で撫でられ、部屋はあたたかく、自分のにおいがついた毛布の上で眠るように。まさに理想的な最期だ。
ご主人もそれを悟っているのだろう、昼間からずっとそばで撫でていてくれる。
泣いてはいなかった。すべてを受け入れ、穏やかに笑うご主人のもと、『人面犬』は撫でる手の感触だけを感じていた。
ここにはご主人がいる。
それだけはわかった。
そして、今の『人面犬』にはそれで充分だった。
なんと満ち足りた終焉だろう。『怪異』である自分にはもったいないくらいだ。あたたかさに安らいで、『人面犬』はしわくちゃになった老人の顔で一生を振り返る。
あの日、ご主人に見つけてもらわなければ、自分はきっとどこぞで野垂れ死んでいただろう。やさしさもぬくもりも、生きる意味もなく。
しかし、ふたりは出会ってしまった。それが『怪異』の摂理に反していることだとはわかっていた。が、『人面犬』はご主人との生活を選んだ。
はじめは警戒していたが、やがて『人面犬』はすっかりご主人になついた。名前をもらって、帰る場所をもらって、すべてが初めてのことだらけだった。
毎日が楽しかった。ご主人の帰りを待ち、ご飯をもらい、散歩に連れて行ってもらい、夜が更けるまで遊んでもらって、いっしょの布団で眠った。
ご主人はこんな滑稽でおぞましい姿の自分を恐れることも嫌悪することもなく接してくれた。そのこころに深い傷跡を持ったご主人は、我が子を助けるように『人面犬』を救ってくれた。
いろいろなことがあった。時にはこのバケモノの顔を他人に晒すこともあった。
しかしそのたびに、自分はバケモノでよかったと思うのだ。
ご主人は泣いて謝ってきたが、『人面犬』は少しもいやだとは思わなかった。
長い年月をいっしょに過ごして、『人面犬』は自分の中に知らない感情が芽生えていくのを感じていた。
ご主人の一番になりたい。ご主人を守りたい。ご主人とずっといっしょにいたい。
若いころはそれを忠義心と定義していた『人面犬』だったが、今はそうではないことがわかる。
だとしたらなんという感情なのだろう?
濃い霧がかかったような頭でなんとか考える。
子供じみた独占欲? 甘え? それともやはり忠義心なのだろうか?
どれも違う気がした。
もっと深く、自分の感情を探と、唐突に頭の中の濃い霧がさぁっと晴れていくような感覚があった。
そうだ、これは恋だ。
自分はご主人に、恋をしていたのだ。
『怪異』の分際でなにを滑稽な、と笑われても構わない。
『人面犬』は、深く、深く、ご主人に恋をしていた。
自分は、この恋のために生まれてきたのだ。
そう確信する。
いや、恋などという次元ではないのかもしれない。
無償の愛、アガペー。そのように名付けた方がしっくりきた。
ご主人になにか見返りを求める気はまったくなかった。ただ、しあわせそうに笑って暮らしていてほしかった。それ以外は何も要らないし、そのためなら何でもする。
『人面犬』は最後の最後に、やっと自分の気持ちに名前を付けることができた。
「……ごしゅじん……」
もうかすれてよく聞き取れない声音を、『人面犬』は最後のちからを振り絞って発した。
「なんや?」
やさしくなでる手を止めず、ご主人が耳を近づけてくる。
『人面犬』は荒い呼吸の中、途切れ途切れに自分の気持ちを伝えた。
「……ぼく……ごしゅじんのこと……すきやったで……あいしとった……だいすきや……ごしゅじん……」
「……うん、私もやで」
ぐ、と何かをこらえるような顔をした後、ご主人は笑ってうなずいき『人面犬』の名前を呼んだ。
「……よかった……」
それを聞いてため息のようにつぶやくと、『人面犬』のからだから急速にちからが抜けていく。一世一代の告白をして、緊張の糸が切れたのだろう。
ぐぅ、ぐぅ、と最期の呼吸をする『人面犬』を撫で続けながら、ご主人は慈母のような声音でささやく。
「おやすみ。ゆっくり休みな。虹の橋でまた会おうな」
虹の橋。そんな素敵な場所があるなんて。
愛を知った今なら、自分でもたどり着けそうな気がした。
いつかご主人が迎えに来てくれた時には、もう一度はっきり『愛している』と伝えよう。そしてまた、コンビーフを食べて散歩に出かけるのだ。
虹の橋の桜はどんな色をしているのだろう?
考えている内に、だんだんからだが軽くなってきた。あたたかな海を漂っているような心地で、『人面犬』は目を伏せる。
自分の死が原因で、ご主人に泣いてほしくないと思っていた。
が、今は少しだけ、やっぱり死んだら泣いてほしいと思ってしまう。
ごめんなさい。けど、このワガママが恋なんだ。
近くにいたご主人の気配が徐々に遠ざかっていく。
死んだらまずは、神様に噛みついてやらないと……
『人面犬』は深く息を吐き、そして二度と息をすることはなかった。
ひとの顔をした犬の亡骸を抱え、古ぼけたアパートの一室でおばさんが泣いている。声も上げずに、ただ静かにその死を悼むように。
そのむくろが冷え切るまでずっと、おばさんは不思議な犬のからだを抱きしめていた。
「……ありがとなぁ……」
亡くした犬の名前を呼ぶ。
大雨のような涙の下でたしかに微笑み、そうつぶやいて、おばさんはゆりかごの赤子を揺らすように犬の亡骸を腕に抱えていた。
やがてそのからだが完全に体温を失くし、死の静寂が訪れたころ、おばさんは不思議な犬を埋葬しに、お気に入りだった毛布に亡骸をくるんで桜の木の下へと向かった。
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