第四夜 人面犬 6
そうやってしあわせな日々を十何年か続けてきた。
ご主人も少し年を取り、白髪が増えておばあさんの見た目に近づいてきた。
そして『人面犬』は老人になり、もうからだもあまり動かなくなった。目も見えないし、耳も遠い。顔つきも完全にしわくちゃのおじいちゃんになってしまった。
最近、食後によく血を吐くようになった。もう日課だった散歩も行かず、ただお気に入りの毛布の上に丸まって一日の大半を寝て過ごした。
ご主人は『人面犬』を動物病院に連れて行った。
しかし、どの獣医も『人面犬』の顔を見ると門前払いしてきた。
「待ってや! この子はええ子なんや! ちょっと顔がこわいだけなんや!!」
そう言ってすがるご主人を、幾人もの獣医が追い払った。
もうマトモな獣医は頼れなかった。
日に日に衰弱していく『人面犬』を、ご主人はいつもより長く撫でてくれた。『人面犬』はちからを振り絞ってその腕に甘える。
今日も一日、寝て過ごしていた。もう夢と現実の区別があいまいになっている。
今生きているのは夢か? うつつか?
帰ってきたご主人の顔を見て、うつつだと信じることにした。
ご主人はすぐに外出の用意をすると、ケージに『人面犬』を入れてどこかへ連れて行った。
ごみごみした繁華街の裏路地、細い階段を上った先に看板の出ていないドアがある。そこをくぐると、中は病院のような作りになっていた。
蛍光灯に照らされたデスクには、年老いた白衣の男が座っている。
どうやらここは闇医者らしい。
「先生、ほんまに驚かんでくださいよ?」
「この稼業何年もやっとんのや、ちょっとやそっとのことでは驚かん」
闇医者に念を押したご主人は、ケージからそっと『人面犬』を取り出した。困ったような顔をした『人面犬』を見た闇医者は、ふぅむ、とうなって、
「珍しいが、ただの犬や」
その一言でご主人がほっとしたのがわかった。
闇医者はレントゲンや聴診器、スコープなどを使って『人面犬』のからだを精査していった。時々痛いことや苦しいこともあったが、『人面犬』は黙って耐えた。
「……こりゃ、ガンやな」
結果、闇医者が出した答えはそれだった。
「ど、どれくらい悪いんですか!?」
顔色を変えたご主人が詰め寄ると、闇医者は重いため息をついて、
「……正直、もう先は長ない。モルヒネで痛み和らげるくらいしかできん。全身に転移しとる」
その決定的な言葉を聞いて、ご主人は目を見開いて顔を真っ青にした。がたん、と音を立てて椅子に崩れ落ち、うつむく。
「……そんな……!」
「最期くらいは好きなもん食べさせて、好きなようにさせたり。そばにおって、よう撫でとくんやな」
そう言い残した闇医者は、モルヒネの調剤をしに席を立った。
「……嘘やろ……?……なんで……!?」
「……ご主人……」
しわがれた声で『人面犬』が語り掛ける。
「……僕、大丈夫やで……」
「こんな時まで強がらんでええわ!」
怒られた。しゅんとしていると、ご主人は血相を変え、
「ああ、ごめんな。あんたの気持ちはうれしいけど、つらいときはつらいって言うたらええねんで」
「……ごめんな、ご主人……」
「なに弱気になっとんねん! 私の知り合いも余命半年や言われてまだ生きとるわ! 病気になんて負けたらアカン!」
「……うん……」
ご主人はそう言うが、自分のからだだ、『人面犬』はもう死期がそこまで近づいていることを悟った。
闇医者からモルヒネを受け取り、決して安くはない金額を支払い、ご主人は『人面犬』を連れて家に帰ってきた。
「……ただいま」
「……おかえり」
なによりも大切な『人面犬』とご主人の家。ただいま、と言えばご主人がおかえり、と返してくれる。
久々の遠出で疲れ切った『人面犬』は、ケージから出されるとすぐにお気に入りの毛布のところで丸くなってしまった。
ご主人が心配そうに『人面犬』の名前を呼ぶ。
『人面犬』は眠くて眠くて、その声に答えることができなかった。
ご主人の顔がさっとかげる。ひとはそのかげりを、絶望と呼ぶのだろう。
そのまま寝入ってしまった『人面犬』の軽くなったからだを抱き上げると、ご主人はそのからだを布団に入れた。明かりを常夜灯にして、隣に横たわる。
苦しくはないだろうか? 痛くはないだろうか?
……まだ、生きているだろうか?
ご主人はそればかりが気になってロクに眠れなかった。
それからというもの、ご主人はずっとパートを休んで家にいてくれた。
片時も離れず、ただ眠っている『人面犬』をさするように撫で続けた。
時折目を覚ました『人面犬』は、まだ生きているとご主人を安心させるようにその手を舐めた。
食事は大好物のコンビーフを小さく切って与えてくれた。しかし大半を残してしまい、さらには食後血を吐いて、ご主人をおろおろさせてしまった。
「そ、そうや! モルヒネ……!」
「……アカン、ご主人……」
老人の声で『人面犬』が制止する。
「なんでや!」
「……それ、頭がぼーっとするやつやろ……?……僕、ご主人とおるときにぼーっとしたくない……覚えときたいんや……痛ても、苦しゅうてもかまへん……ご主人のこと、そばで感じたいんや……」
途切れ途切れの懇願に、ご主人は悔しそうに両の拳を握りしめ、なにも言わなかった。
結局モルヒネは使わず、苦しげに血を吐く『人面犬』のからだをさすりながら、ご主人は泣きそうな顔をしていた。
そんな顔をしないで。
自分は大丈夫だから。
どうか、笑っていて。
たくさんの言葉が喉の奥からあふれかえってきたが、どの言葉も形にはならず、『人面犬』の中で消えていった。
もう声を発するのも億劫になっている。口の中に血のかたまりがたまっていた。
落ち着いたころを見計らって、ご主人は『人面犬』を毛布のところまで連れていってくれた。そばにいて、ずっと撫でてくれる。
茫洋とした意識の中で考える。
自分はもうすぐ死ぬのだろう。
ご主人を残して。
またご主人の中に深い傷跡を残していくことが申し訳なくてたまらなかった。
もっと長生きできたらよかったのに。
神様はつくづく残酷だ。
それでも、短いいのちの一瞬一瞬を生きていたかった。
自分の生きた証を、ご主人の中に残すために。
こういう生き物がいた、と覚えてもらうために。
ご主人こそが自分の生きる意味なのだから。
ご主人がいなければ、自分などとうの昔に死んでいた。
あの日、あのとき、奇跡のような出会いがなければ、『人面犬』は『怪異』としてひとりぼっちで生き、死んでいっただろう。
しかし今はひとりぼっちではない。
かけがえのない存在がいる。
そういえば、そのことをご主人に面と向かって話したことがなかった。
いつでもご主人の一番でいたい、ご主人を守り、ご主人と共に生き、誰よりもご主人としあわせを分かち合いたい。
この気持ちはなんなのだろう?
昔は忠義心だと思い込んでいたが、今は違う気がする。忠義心とはもっとストイックで、見返りを求めないこころだ。
自分はご主人に甘えたいし、ご主人に撫でてもらいたい。それは幼い頃から変わらない。
だとしたら、この感情をどう名付ければいいのだろう?
考えているうちに、『人面犬』はうとうとし始めた。ご主人はすぐに『人面犬』のからだを抱えて布団に連れて行き、明かりを常夜灯にして隣に横たわった。
もうろうとした意識の中で、『人面犬』は別れの時が迫っていることを漠然と悟っていた。
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