第四夜 人面犬 3

 すっかり日課になった散歩から帰ってきて、ボールで遊んでいる時のこと。


 ご主人は洗濯物を畳みながら『人面犬』の様子を微笑ましげに眺めていた。


 そのやさしい眼差しに、以前から思っていたことをぶつけてみる。


「ご主人は、なんでこんな僕に良くしてくれるん?」


 忌み嫌われて当然のバケモノなのに、一向に追い出す気配はない。それどころか、毎日ご飯をくれて散歩に連れて行っていっしょに眠ってくれる。


 ご主人は洗濯物を畳む手を止め、少ししわの寄った手で『人面犬』の頭を撫でた。


「そりゃあ、あんたが困っとったからかなぁ」


「困っとったら助けてくれるん? あの白い制服のひとたちや石投げてきた子供たちは助けてくれへんだよ?」


 幼児特有の好奇心で次々と質問を投げる。ご主人は、うーん、とうなり、


「まあ、そういうひともおるやろなぁ。世の中、いろんなひとがおるから。でもな、全部が全部そういう人間やないで?」


 不思議そうに見上げる『人面犬』の頭をなでながら、ご主人は述懐する。


「少なくとも私は、困ってる子がおったら助けたるって決めとんのや。ご主人もな、昔それで助けられんくて、今でも後悔しとる子がおるんや」


 ふう、とため息をついて、ご主人はぱたりと頭をなでる手を止めた。


 なにかあったんだろうか? 『人面犬』は黙ってご主人の言葉の続きを待った。


「……私な、子供おってん」


 子供、というと、ご主人の娘か息子だろうか。ぽつりぽつりと語るご主人の言葉に、『人面犬』は耳を傾けた。


「かいらしい子やったわ。賢ぅて、よう笑って。そのころは旦那もおって、家族三人で暮らしててん。なんも不満なんかなかった。しあわせやったわ」


 そのしあわせになにかが起こったのだ。話の続きを聞くのがこわい気がしたが、『人面犬』は何も言わなかった。


「せやけどな、子供が5歳の時に、交通事故で死んでしもて。残ったんは示談金と遺骨と、離婚届だけやった。いきなりなんもない場所に放り出された気分やったわ。それまでずっと家族のために生きとったからな、なぁんもなくなった」


 ご主人はまたため息をついて、


「あのときなんでああしとらんかったんや、あのときあんなことせんかったらよかったんや、ずーっと自分を責めた。私さえしっかりしとったらあの子は死んだりせぇへんかったかもしれん。私のせいや。そればっかり考えとった」


 そこで、ご主人は苦笑した。自嘲の笑みとも言えるかもしれない。さみしさと後悔と、そんな自分に自己嫌悪する。そんな表情だ。


「若いころからずーっと引きずっとった。仕事しとっても、あ、私が代わりに死ねばよかったんちゃうか? って思うようになってな。ひとりで暮らしてさみしい思いして……そんなときに、あんたが来てくれた」


 やっと過去が今につながった。『人面犬』は居住まいを正す。


「あの子を助けられんかった罪滅ぼしに、あんたを助けよう思た。ごめんな、不純な動機で。小さい子が困っとる、せやから、今度こそ手を伸ばそって決めてな。あんたあの子に顔が似とるし、助けたんはそれが理由かな。まあ、私の自己満足や」


「でも、僕はご主人が助けてくれてうれしかったで?」


 慰めるように言う『人面犬』の耳の後ろを、ご主人は再度撫でた。


「そう思てくれてるだけで充分や。あんたが来てくれて、私も毎日楽しい思てる。家帰ってもひとりやないし、しゃべり相手になってくれるし、いっしょに寝てくれる。最近はあの子のこと気に病んだりせんようになった。あんたのおかげや」


 まぶしそうに目をすがめて告げるご主人の言葉に、『人面犬』は照れくさそうに笑った。


 少しでもご主人の傷ついたこころに寄り添えたらいい。それが拾ってくれたご主人に対する恩返しだ。


「僕、ご主人の子供になれへんかな?」


 なれたらいいな、と期待を込めて尋ねると、ご主人は困ったように笑った。


 これはやんわりとした拒絶だと、『人面犬』にもわかる。


 幼い『人面犬』は、少しご主人のこころの傷に踏み込みすぎてしまったらしい。ご主人の子供は、事故で亡くなった子ひとりだけなのだ。自分などがなれるはずがない。


 しゅんとした『人面犬』を抱き上げたご主人は、そのまま膝に乗せて、


「そないなこと考えんでええよ。あんたはいてくれるだけで充分なんやから」


 その重みとあたたかみを確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。


 『人面犬』は思う。


 もしかしたら、自分はご主人のためにこの世に生まれてきたのではないか、と。


 今まで生きる意味や生まれてきた意味など考えたこともなかったが、満たされた生活の中でふと考えるのだ。


 なんのために生まれてきたのか、と。


 まだ未発達の自我が問いかけてくる。


 ただただ生きているだけだった『人面犬』が、そこになにかしらの意味を見出そうとしているのだ。


 『人面犬』はご主人の腕になつくように顔をすり寄せ、尋ねる。


「なあご主人」


「ん? なんや?」


「ご主人は生まれてきた意味ってなんやと思う?」


 いきなり哲学的な質問を突き付けられて、ご主人は『人面犬』を抱いたまま考え込んだ。


「……生まれてきた意味、なぁ……」


 悩んでいる。難しい質問をしてしまったのだろうか?と『人面犬』は申し訳なく思った。


「……せやなぁ、生まれてきた意味。たぶんそれは、どんなときにしあわせなんかっていうのと関係あると思うわ」


「しあわせ?」


「そう。生まれてきたっちゅうことは、しあわせにならなアカンっちゅうこっちゃ。せやから、しあわせなときが生きてきた意味なんちゃうかなぁ」


 それはなんとなくわかった。生まれてきたものの権利であり、義務であるしあわせ。それを感じる瞬間が、生まれてきた意味、ということだ。


 どんなときにしあわせだと感じるのか? 思い浮かべてみると、どの瞬間にもご主人の姿があった。


 『人面犬』はうれしそうな顔で、


「僕、ご主人とおるときがしあわせや!」


 そう告げると、ご主人もうれしそうな顔で『人面犬』の頭を撫でた。


「そうかぁ」


「せやったら、僕が生まれてきた意味ってご主人といっしょにおること?」


「かもしれんなぁ」


 頭を撫でられ目を細めながら『人面犬』は納得する。


 やはり、自分はこのひとのために生まれてきたのだ。


 あのゴミ溜めの中で一生を終える結末もあったかもしれない。保健所の職員に捕まって、殺処分される結末もあったかもしれない。子供たちに本気でいじめられて死ぬ結末もあったかもしれない。


 しかし、そのどの結末も訪れず、『人面犬』はこころに傷を持つご主人と出会い、ここへ来たのだ。



 生きている意味を他人に押し付けるのは無責任なことと思うものもいるだろう。


 しかし、まだ幼い『人面犬』は母親に甘える心地で、生きている意味をご主人に求めてしまった。


 それが良いことなのか悪いことなのかはわからないが、少なくともご主人は笑っていてくれる。


「……ご主人は今、しあわせなん?」


 ふとした問いかけを投じると、ご主人はにっこり笑って、


「まあまあやな」


「……まあまあ……」


「しあわせやー思う時もあるし、ふしあわせやー思う時もあるし。人間、生きとるんやで百パーしあわせ全開のときはあらへんわな」


「ふぅん」


 どうやら、まだ自分はご主人をしあわせにし足りないらしい。ならば、もっとがんばらねば。


 ずっとずっといっしょにいて、毎日を笑顔で飾ってほしい。


 そう願いながら、『人面犬』はいつの間にかご主人の腕の中で眠ってしまった。

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