第四夜 人面犬 2

 それから毎日、おばさんは『人面犬』にごはんをあげ、畳部屋に古い毛布を敷いて居場所を作ってくれた。パートから帰ってくると撫ででくれ、一日あったことを話してくれた。


 しかし、『人面犬』はおそれていた。


 いつ手のひらを返されるのか。いつ裏切られるのか。


 散々人間に虐げられてきた『人面犬』がこころを開くのは、そう簡単なことではなかった。


 それでもおばさんは熱心に『人面犬』に構った。おもちゃやおやつを買ってきてくれたり、夜はいっしょに寝てくれたり。


 口を閉ざしたままの『人面犬』がこころの壁を溶かすのをずっと待っていた。


 ある日のこと。


 パートがお休みの日らしく一日家にいたおばさんに、夜寝るときに聞いてみた。


「……なんで僕をこわがらんの?」


 人間の幼児の顔で弱々しく問いかける。


 するとおばさんは『人面犬』をなでながら、


「やっと口利いてくれたと思たらそれか!」


 けっこう大きな声だったが、怒っている様子はない。おばさんは続けて答えてくれた。


「かわいい子犬で、顔もかわいらしゅうて、おしゃべりもできる。お得や!」


 お得。そんな風に『人面犬』を扱う人間は今まで見たことがなかった。


 おばさんにしてみれば、一石三鳥の生き物なのだろう。


 その答えを聞いた『人面犬』は、思わず吹き出してしまった。それから、しまった、怒られる、と怯えた顔をする。


 しかしおばさんは怒らず、『人面犬』をなでながら同じように笑った。


「ははは! やっと笑ってくれたなぁ。そやそや、笑顔が一番や! せっかくかいらし顔しとるんやで、笑ったらもっとお得や!」


 おばさんは『お得』という言葉に弱いらしい。


 試しににっこり笑ってみたら、おばさんはうれしそうに『人面犬』を抱きしめた。


「人間も、人間やのうても、笑っとったらなんとかなるもんや。忘れたらアカンで」


「……うん」


 返事が届くより先に、おばさんはぐーすかいびきをかいて眠ってしまった。


 『人面犬』は笑う。その方がおばさんがよろこんでくれるから。


 ひどく滑稽な『怪異』だが、大切なひとがよろこんでくれるのならいくらでも道化師になろう。


 おばさんに抱きしめられ、笑顔のまま、『人面犬』は眠りについた。


 


 また別のある日のこと。


 パートから帰ってきたおばさんは、なにやら買い物をしてきたようだ。


 いつものおやつかな?と少し期待をしながら待っていると、おばさんは袋からペット用の首輪を取り出した。


「これつけるの、いやか?」


 心配そうに尋ねるおばさんに、『人面犬』は首を横に振った。


「そうか」


 どこか安堵したようなおばさんは、早速首輪を『人面犬』につけてやる。


 赤い首輪だった。少し苦しい気がしたが、慣れてくればなんてことはないだろう。


「これも買うてきてん」


 次に出てきたのは散歩用のリードだった。どうやらおばさんは散歩に行く気らしい。


「……でも……」


 しょぼんとした顔で『人面犬』がうつむく。こんな顔で往来を歩いていたら、おばさんにまで迷惑が及ぶ。それは絶対にいやだった。


「ふふん、そう言うやろと思て、これも買うてきたんや!」


 さらに取り出したのは、黒い毛糸玉と編み棒だった。いったいこれでなにができると言うのだろう?


「まあ、お楽しみっちゅうこっちゃ。編み物は得意なんやで!」


 そう言うと、おばさんは晩御飯の用意をしにキッチンへ行ってしまった。


 しばらくしてから、ごはんを盛ったお茶碗とお味噌汁のお椀、おかずと、犬用の皿に入った『人面犬』のごはんが用意される。


 畳部屋のちゃぶ台で、いただきます、と手を合わせて食べ始めるおばさんを認めたあと、『人面犬』もまたごはんを食べ始めた。


「そういや、あんた名前ないんやんな」


 ご飯を食べながら言うおばさんに、『人面犬』はうなずいて見せた。


「せやったら、名前つけたらなアカンな。そうやなー……」


 おばさんが口にした名前は、とても耳に心地よい響きだった。


 初めての自分の名前だ。それだけでなにかすごいちからを手に入れたような気がして、わくわくした。


 おばさんがその名前を呼ぶと胸が躍る。この名前で呼ばれたときはうれしい。


 満足げに笑う『人面犬』を、ご飯を食べ終わったおばさんが撫でてまた名前を呼んでくれた。


 こういうのは知っている。


 名前をもらうということは、くれたひとに忠義を尽くすべきだ。


「……ご主人」


 ぽつり、『人面犬』がつぶやくと、おばさん……ご主人の目が丸くなった。


「そないなたいそうなもんやないで」


「でも、ご主人って呼びたい」


「……しゃあないなぁ。せやったらそう呼びぃ」


「うん!」


 明るい顔をして、『人面犬』はしっぽを振った。


 それからの毎日の中で、『人面犬』は次第にこころを開いていった。


 畳部屋の片隅の毛布の上がお気に入りの場所だった。


 ご飯は何でもおいしかったが、やはりコンビーフが一番好きだった。


 ボールで遊ぶのが好きだった。


 それを見たご主人は、ただただうれしそうに笑っていた。


 『人面犬』はご主人を受け入れ、ご主人に受け入れられた。


「じゃじゃーん!」


 夜ご飯を食べた後、おばさんはなにやら黒いものを取り出してお披露目した。


 それは毛糸で編まれた、小さな目出し帽のようなものだった。


「あんた、散歩のときはこれ被りぃ! そしたら普通の柴犬や!」


 『人面犬』と散歩をするために作ってくれたのだ。試しにかぶせてもらうと、アンバランスだった人間の顔はすっかり隠れ、見た目はただの犬になった。


「ありがとう、ご主人!」


 目出し帽をかぶってしっぽを振る『人面犬』が部屋中を飛び跳ねると、ご主人はリードを取り出して、


「ほれ、早速散歩や!」


 首輪の金具にリードを繋いで、出かける準備をし始めた。


 初めての散歩に『人面犬』は浮かれた。


 ご主人といると、なにもかもが初めてだらけだ。


 新しい発見がたくさんあって、毎日が楽しい。


 案外世界は広く、美しく、やさしいことに気が付く。


 それもこれも、ご主人のおかげだ。


 準備を終えたご主人の服の裾を口で引っ張って、『人面犬』は初めての散歩に出かけた。

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