第四夜 人面犬 1
『それ』は、ある雨の日、ゴミ溜めの中で生まれた。
からだは柴の子犬で、丸っこい見た目が実に愛くるしい。
しかし顔は犬のそれではなかった。
目も、鼻も、口も、人間の幼児の顔をしていたのである。
『それ』は『人面犬』と呼ばれる『怪異』だった。
そう、『怪異』だ。
発生源もあやふやな情報が人口に膾炙し、爆発的に膨れ上がる過程で明確なイメージを得、そしていつの間にかこの世界に実像となって顕現した『怪異』。それはひとびとの恐怖の具現化であり、ひとさじの好奇心という夢物語の受肉である。
偏在するロアの誕生だった。
『それ』は『人面犬』と呼ばれる都市伝説から発生した『怪異』である。ある日の夜、ゴミ箱を漁っている犬がいた。ふとその顔を見ると、そこには人間の顔がついている。犬は一言『なに見てんだよ』とつぶやいて、どこかへ消えてしまう。
そういう(おそらくは)架空の現代伝承から生まれた『人面犬』は、ゴミ溜めの中で雨に濡れていた。
生まれてきたいきさつは覚えていない。気が付いたらここにいた。ここ以外の場所を知らず、ただゴミを漁って生きてきた。
その顔が示す通り、まだ幼い『人面犬』は他に生きるすべを知らなかった。ゴミを食べ、脱糞し、眠る。その繰り返しの生き物だった。
もちろんひとは寄り付かない。時折ゴミを捨てに来る人間もいたが、気味悪がって誰も寄り付かなかった。
そしてだんだんとあそこにはバケモノがいるとウワサされ、子供たちから石を投げられるようになった。
ああ、自分はそういう生き物なんだな、とぼんやり思いながら、今日も雨に濡れながら『人面犬』はゴミを漁る。
生まれてきた意味も、『怪異』としてのアイデンティティも、なにも関心がなかった。ただ生きていくだけだ。バケモノと罵られようとも、石を投げつけられようとも。
全身濡れねずみになりながらゴミを漁っていると、遠くから大きな車のエンジン音が聞こえてきた。
急速に近づいてきた車から、白い制服を着た人間たちが降りてくる。人間たちは手に手に投網や棒を持って、『人面犬』の方に向かってきた。
「見つけたぞ!」
「ウワサ通りだ」
「うわっ、気味悪い……」
口々に言いながら、包囲の輪を狭めてくる。
保健所の野良犬駆除の役人たちだった。『人面犬』は戸惑いながらも逃げなければ、と本能的に察知して、役人たちの足の間を風のようにすり抜けていった。
「おい、待て!」
追いかけてくるも、人間の足では獣の足には追いつけない。『人面犬』は雨の中、どことも知れぬ逃げ場所へと走った。
街へ出ると、そこいらに時々自分と同じ野犬がいた。
いや、『同じ』ではない。
野犬たちは『人面犬』を見つけると、異物を発見したかのように低くうなった。同じ犬にする反応ではない。
人間からも疎んじられ、犬からも蔑まれ、半端者である『人面犬』は行き場をなくしていた。
ようやく別のえさ場を発見したと思ったら、ほどなくしてまた保健所の役人たちがやって来た。
逃げて、その先でゴミを漁って。その繰り返しの日々に、『人面犬』はすっかり疲れ切っていた。
幼い思考の中で、早く死ねればいいのに、とさえ思った。
それでも今日もゴミを漁り、脱糞して、眠る。ただただ、生きた。
ある日のこと。
いつも通りひとときの餌場である路地裏でゴミを漁っていると、パート帰りらしいおばさんが通りすがった。美しくもみにくくもない、ごく普通のおばさんだ。
きっとまたバケモノと罵られる。石を投げつけてくるかもしれない。『人面犬』は人間の顔を歪めてうなった。
「あらまあ、こんに汚れて、真っ黒けやないか。かわいそうになぁ」
おばさんはそう言うと、警戒する『人面犬』の頭をそっと撫でた。撫でられるなど、生まれて初めてのことである。とても気持ちがいい。
おばさんは『人面犬』のことをまったくこわがらなかった。罵声を浴びせたり蹴ったりしてこない。バケモノである自分のことを、普通の犬として扱っている。
耳の後ろをかかれて警戒心が緩んでいる隙に、おばさんはバッグからおにぎりを取り出して『人面犬』に差し出した。
「ほれ、これ食べ。おばちゃんのお昼の残りや」
『人面犬』は人間の鼻でくんくんとにおいを嗅ぐと、人間の口でおそるおそる一口頬張った。手作りらしい塩むすびは、久々のマトモな食べ物だった。
おいしい。ゴミ以外のものを食べたのも初めてだった。がつがつとむさぼるるように平らげると、『人面犬』はぽつりとつぶやいた。
「……ありがとう」
誰かにお礼を言うのも初めてのことだった。
「あら、あんたしゃべれんの? えらいお利口さんやなぁ。それやったら、私の言うとることもわかるな?」
「……うん」
幼児の声で返事をすると、おばさんは小さな『人面犬』のからだを抱き上げて、
「よかったら、うち来ぃ。ちょうどひとりでさみしかったとこや。おしゃべりできる犬がおったらええなと思とったん。やから、うちの子になりなぁ」
「……うん」
「よし、ええ返事や」
にっこり笑ってうなずくと、おばさんはそのまま豪快に『人面犬』を小脇に抱えて歩き出した。
腕の中で揺られながら、『人面犬』は困ったような顔をする。もしかしたら、食べられるのかもしれない。いじめられるかもしれない。憂さ晴らしに罵るのかもしれない。
『人面犬』の深くに根付いた人間への不信感は、そう簡単には拭い去ることはできなかった。
やがておばさんは一軒の古ぼけたアパートにたどり着いた。鍵を開けて、中に入る。いかにもおばさん趣味のレトロな畳敷きの部屋だった。
明かりをつけて、おばさんは腕まくりをする。
「よっしゃ、まずはそのばばちいからだ洗わなな」
一体何をされるのかとびくびくしていた『人面犬』を、おばさんはお風呂場へと連れて行った。
いきなりシャワーのお湯をかけられて、びっくりした顔をして飛び退る。
「ごめんなぁ、水嫌いか? でもあんた、ばばちいでな。ちゃんと洗うで」
決意を秘めた声でシャワーのお湯を『人面犬』にかけるおばさん。『人面犬』はぎゅっと目をつむって初めての感覚に耐えた。
あたたかいお湯で浮いた汚れを、ボディソープらしきいいにおいのする石鹸でくしゃくしゃに洗われる。思わず泡まみれのからだをぶるぶると思いっきり震わせると、泡がおばさんにかかった。
「あっはは! 案外元気やないか」
それをものともせず、おばさんはわしゃわしゃと『人面犬』のからだも顔も洗ってくれた。
お湯で泡を洗い流すと脱衣所まで連れていかれ、タオルで拭いてもらいドライヤーをかけてもらう。湿り切った毛皮にあたたかく乾いたドライヤーの風が気持ちよかった。
からだが小さいのですぐにドライヤーは終わった。戸惑いの表情を浮かべる『人面犬』を六畳ほどの畳部屋に連れて行き、おばさんはキッチンへと向かった。
きっとこれから自分のことを食べるのだ。包丁で腹を切り裂いて、血と臓物を抜き、毛皮を剥いで細切れにするのだ。
戦々恐々としていると、おばさんが戻ってくる。手にしていたのは包丁などではなく、皿に乗ったコンビーフのようなものだった。
「これ食べれるかぁ? おにぎり食べれるんやったらいけるやろ」
目の前に置かれた皿に人間の鼻を突っ込むようにしてにおいを嗅ぎ、一口かじる。ちょっとしょっぱかったが、まぎれもなく腐っていない肉だ。
目の色を変えてコンビーフをむさぼっていると、皿はすぐに空になってしまった。もっと欲しい、と切なげな瞳でおばさんを見上げると、
「食べすぎはアカンで。あんたまだ小さいんやから、一日三食ちょっとずつや」
「……うん」
しょんぼりした様子の『人面犬』の頭をなでると、おばさんは自分のご飯を食べにキッチンへ戻った。
食事と入浴を終えたおばさんは、寝間着に着替えて畳部屋に煎餅布団を敷き、横になった。どうしていいかわからなくて手持無沙汰だった『人面犬』を招くように布団の隣をぽんぽんと叩くと、
「ほら、こっち来ぃ。いっしょに寝よ」
こんな気味の悪い生き物といっしょに眠れば、悪夢を見ること間違いなしだ。
しばらく黙り込んでいた『人面犬』に、すこしさみしそうにおばさんが問いかける。
「いやか?」
他の人間と寝たことがないのでいやとも何とも言えなかった。
『人面犬』はおずおずと布団の中に入り、おばさんの隣に収まった。
「よし、ええ子や」
おばさんは『人面犬』をなでながら、明かりを常夜灯にする。
「今日はあんたと出会えてよかったわ。ほな、おやすみ」
ぽんぽんと『人面犬』の頭を叩くと、おばさんはすぐにいびきをかいて眠ってしまった。
今日は初めてのことだらけだった。
初めてのお風呂、初めてのマトモなごはん、初めてのあたたかい寝床。
初めての自分を怖がらない人間。
すべてが知らないことばかり。
しかし、このぬくもりだけはわかる。
ふと、『人面犬』の人間の頬に滴が伝った。
泣いているのだ。
あたたかい感情が涙となってあふれ出して止まらなかった。
早く泣き止まなければ、おばさんが心配する。
それでも涙は止まらず、『人面犬』はしばらく鼻をすすって泣き続けていた。
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