第三夜 口裂け女 9

 再び告白されると、『口裂け女』はあたふたと慌て始めた。こんな展開は予想していなかった。やはりこいつはタダモノではない。変態だ。


 しかし、そういうところが好きなのも事実である。


 紳士的で、スマートで、やさしくて、知的で、変態で、ちょっと強引で。


 マスク男と同じく、そういうところをひっくるめて好きなのだ。


 『口裂け女』は腕の中で真っ赤になって狼狽しながら、


「……えっと、あの……私でよければ……」


 小さく返事をしたその瞬間だった。


「よっしゃあああああああ!!」


 マスク男が上げた雄たけびに、『口裂け女』はびっくりして肩を跳ねさせる。今にもガッツポーズしそうな勢いに、目をぱちりとさせた。


 こんな風に叫ぶところ、初めて見る。


 釣られて、『口裂け女』もよろこびを爆発させてぎゅっとマスク男に抱き着いた。


 このひとと出会えてよかった。


 前言撤回、サンキュー神様とやら。


 この数奇な出会いに感謝して、『口裂け女』はマスク男の腕の中で思い切り歪んだ笑みを浮かべた。


 しかしその笑みも数秒後には固まってしまった。


「じゃあ、記念にキスしてもいいですか?」


 突然のマスク男の問いかけに、『口裂け女』は一気にテンパった。こういった不測の事態に弱いのがメンヘラちゃんの特徴である。


 キスといえば、アレである。くちびるとくちびると触れ合わせる、ちゅーである。恋人同士がするものである。


 もちろん『口裂け女』にそんな経験はなく、想像しただけでも頭が破裂しそうになった。


 もだもだと慌てふためきながら、『口裂け女』は抵抗の言葉を途切れ途切れに発する。


「……あのっ、まだこころの準備が……こんな口だし……!」


 だが、言葉でいくら抗ってもマスク男は止められなかった。


「ああ、まだるっこしいなぁ」


 呆れたように笑った『マスク男』は、腕の中の『口裂け女』に顔を近づけた。反射的にぎゅっと両目をつむる。


 大きく裂けた口に、ちょん、とやわらかい感触があった。ちょん、ちょん、と引き裂かれたくちびるの端にも二回。


 計三回キスされて、しばらくの間『口裂け女』は緊張のあまり目が開けられなかった。


 ファーストキスである。


 よく初めてのキスはレモンの味がする、と言われているが、味のことなど気にする余裕もなかった。


 頭がくらくらして気絶しそうになりながら、『口裂け女』はすがるようにマスク男に抱き着く。


「こんなに大きな口、三回じゃ足りないですね」


 耳元でくすくす笑いながらマスク男が甘くささやく。それだけでもういっぱいいっぱいになりながらも、『口裂け女』はかすれた声で返した。


「……じゃあ、これからもっとしてください……」


 蚊の鳴くような声で言われたことに、今度はマスク男の方が目を丸くした。


 それから穏やかに笑い、


「いいですよ。これからずーっと、まだまだ時間はありますからね」


 そうだ、これから先ずっとマスク男といっしょにいられるのだ。もう実らない恋の終わりから逃げ続ける必要はない。


 お互いの抱える問題が合致したもの同士が出会った。


 これは、もしかしたら奇跡の一種だったのかもしれない。


 割れ鍋に綴じ蓋と笑わば笑え。


 当人たちがしあわせならそれでいいのだ。


 しあわせ! なんということだろう、ただの『怪異』であるはずの自分が、しあわせなどというものを手に入れてしまったのだ。


 限りなくオッズの高い賭けに勝ったような酩酊感に襲われ、『口裂け女』は笑った。


「あはは!」


「はは!」


 マスク男も釣られて笑う。いつしかそれは大笑いへと変わっていった。


 ずっとコンプレックスだった引き裂かれた口を大きく開けて笑い、『口裂け女』はようやく恋を実らせることができた。


 


 ある日の夜、ふたりは花見に出かけた。


 冬の寒さを耐え忍んだ桜が、あたたかくなった今、盛大に花開いている。


 以前約束した通りお弁当を作って持っていき、マスク男がワインを準備し、ひと気のない桜の木の下にレジャーシートを広げて桜を眺める。


 夜にひっそりと咲き誇る桜は、ときおり風に吹かれて花吹雪を散らした。


「……きれい」


 ぽそりと『口裂け女』がつぶやく。ふたりきりのときはマスクを外すという取り決めの通り、そのみにくい口はありのままにさらされている。


 ぼんやりと桜を見上げていた『口裂け女』の醜悪なはずの横顔に、マスク男はひとつ口づけを落とした。


 途端に『口裂け女』は顔を赤らめて、


「そっ、外ではダメですよ!」


 ひっくり返った声で抗議した。


 その様子を見てくすくすと笑いながら、マスク男が言う。


「いえ、やっぱりあなたの方に見とれてしまって……大丈夫ですよ、誰も見てませんから」


 こういういたずらじみた側面も、恋人になってから見せてくれたところだ。


 もう、と不満そうな顔をしながらも、『口裂け女』は次のキスを受け入れた。


 このみにくい口を誰よりも愛してくれるいとしいマスク男。


 偶然と呼ぶにはあまりにも神々しい奇跡に、触れ合うたびに感謝する。


 ずっと願っていた未来が叶ったのだ。


 手が届かないと羨んでいるばかりだった未来に、手が届いた。


「今年の桜も、来年の桜も、その先の桜も、ずっといっしょに見に行きましょうね」


「……はい」


 プロポーズのような言葉に、『口裂け女』は静かにうなずき、隣に座るマスク男の肩にもたれかかった。


「……また季節が変わりますね」


 時はうつろい、季節は巡る。


 そのすべての瞬間に、あなたを感じていたい。


 ふたりは肩を寄せ合いながら、ずっと桜を見上げていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る