第四夜 人面犬 4

 やがて二度目の春が来て、『人面犬』の顔つきもすっかり青年のそれになった。幼いころの面影は残しているが、もう大人である。


 ご主人はそんなに変わらなかった。出会った時と同じような年ごろのおばさんだった。


 それでも、ご主人との日々になんら変わりはなかった。ご主人の帰りを待ち、ご飯をもらい散歩に連れていかれ、帰ってきてまた遊んでもらい、隣で眠る。そんな日々の繰り返しだった。


 たくさん話もした。『人面犬』がうれしそうにしゃべると、ご主人もうれしそうに笑ってくれた。ご主人が気分良さそうにしていると、『人面犬』もご機嫌になった。


 そんな毎日を繰り返しているうちに、『人面犬』はふと気づいてしまった。


 ご主人よりも自分の方が早く年を取っている。


 大人になるまで一年と少しだった。対して、ご主人はほとんど年を取っていない。明らかに自分の方が老いるスピードが速い。


 ある日、夕食の片づけを終えて編み物をしていたご主人に聞いてみた。


「なあ、ご主人」


「ん? なんや?」


「なんで僕、ご主人より早く年取るの?」


 これが『怪異』としての自分の宿業だと薄々感づいてはいたが、ご主人の答えが聞きたかった。


 声も大人の男性になった『人面犬』を、幼いころと同じようになで、ご主人が笑う。


「そりゃあ、あんた、神様に愛されとるからや。神様がはよ来い言うて、寿命短くしたんや」


 寿命。考えたこともなかった。このしあわせな日々は有限なのだ。いつまでもいつまでもしあわせに暮らしました、というのはおとぎ話の中だけのことだった。


 自分はそう遠くない未来に、ご主人よりも先に死ぬ。今更死ぬのはこわくなかったが、ご主人を置いていくことだけがこころ残りだった。


 自分といるとしあわせと言ってくれたご主人。そのしあわせがひとつ、消えてしまうのだ。代わりにかなしみという深い爪痕だけをこころに残して。死ぬということは、恩を仇で返すようなものだ。


 今や、『人面犬』の生きる理由はご主人になってしまった。寄り掛かりすぎだと自分でも思う。が、どうしても甘えるのをやめられない。


 生き物はいつか死ぬというが、いくらなんでも早すぎやしないか。『人面犬』は神様とやらを呪った。


「……愛されとるんやったら、なんでこないな顔に生まれたんや」


 ぼそり、悔しげな口調が口からこぼれてしまった。


 それを聞いたご主人は大きくなった『人面犬』を幼いころと変わらず抱き上げ、膝に乗せる。


「ひとり占めしたかったんやろ。あんたはかいらしいで、普通の顔に作ったら他のもんに持ってかれる。せやから、わざと怖い顔に作ったんや」


「……僕、神様嫌いや」


「私かて別に好きちゃうで。だいたい、こんなかいらしい顔のどこがこわいんや。私は全然こわない。神様の負けや!」


 きっぱりと言い放つと、ご主人は少し誇らしげな顔をした。


「すごいなぁ、ご主人!」


 しっぽを振って称える。神様にも負けないご主人は、やっぱり最高のご主人だった。


「僕のご主人はすごいんやで! 神様にも負けへんのやで!」


 興奮した『人面犬』は膝の上から飛び降りて部屋中を跳ねまわり、遠吠えした。それを眺めていたご主人は、


「はは、近所迷惑やでー! せや、ご主人はすごいんや!」


 笑いながら言った。


 いつか来るであろう別れに怯えることなく、今この瞬間を精いっぱい生きる。


 それを教えてくれたご主人を、『人面犬』はこころから尊敬した。


 『人面犬』はご主人を残して早世してしまうことをどうしてもこころ残りに思うが、ご主人はきっと『人面犬』が死んでもちから強く生きて続けてくれるだろう。


 そのときは、できるだけ笑顔で別れよう。今までしあわせだったよ、と伝えて、お礼を言って、サヨナラしよう。


 『人面犬』の死が原因で泣いてほしくなかった。


 それがせめてもの忠義というものだ。


 いまだに興奮しながら『人面犬』は顔を赤くして早口でまくし立てた。


「なあ、ご主人! 神様に負けへんのやったら、僕が死んでもへこたれんとってな! へこたれたら神様の思う通りや! 僕が向こうの世界で神様に会ったら、思いっきり噛みついたる! もっとご主人とおらせぇって! せやからご主人、泣かんとってな!」


 ぺろぺろとご主人の手を舐めると、ご主人は困ったような顔をした。


「……先のこと言うと鬼が笑うで。アホなこと言うとらんと、おやつ食べ」


「わぁい!」


 おやつに意識が向いた『人面犬』は、話の流れを断ち切ってしまった。大好きなコンビーフのおにぎりをもらって、うれしそうに食べる。


 けぷ、と息を吐いた『人面犬』は、腹も満たされ睡魔に襲われた。


「ほれ、もうこんな時間や。はよ寝よ」


 もう敷いてある布団に入って、ご主人が隣を開けてくれる。そこが『人面犬』の指定席だ。


 布団に潜り込み、丸くなった『人面犬』は早速眠りについてしまった。


 ……どれだけ眠っただろうか?


 ふと目覚めると、まだ夜も開けていない真夜中だった。常夜灯だけがオレンジ色に室内を照らし、時計の音が規則正しく時間を刻み続けている。


「…………?」


 寝ぼけ眼の『人面犬』は、ふとご主人の顔を見上げてみた。


 ご主人は、泣きながらうわごとめいた寝言をつぶやいていた。


「……なんでや……なんであの子なんや……」


 びっくりした『人面犬』がじっとしていると、横たわったご主人のこめかみにどんどん涙の筋が出来ていく。


「……連れてかんとって……お願いや、神様……やめてや……神様……あんまりやで……」


 寝言で神様を恨んでいる。負かしたはずの神様を。


 あの子というのは、きっとご主人が亡くした子供のことだろう。今でもそれを夢に見て、うなされているのだ。


 神様というやつはなんて残酷なんだろう。


 ご主人からいくら奪えば気が済むのだろう。


 ご主人がなにをしたというのだ?


 なにをそんなに偉そうに奪い取っていくのだ?


 暗がりの中、『人面犬』は奥歯をきつく噛みしめた。


 どんどん黒い感情が胸に広がっていく。


 この世界は不条理だ。それを作った神様がいるというのなら、そいつの元へ旅立った暁には絶対に嚙み殺してやる。喉笛を食いちぎり、ハラワタを食い荒らしてやる。


 ご主人のためならば、神様だって敵に回そう。


 ご主人のしあわせのためならば、なんだってやろう。


 ご主人がいつでも笑っていられるように。


 そうこころに決めた『人面犬』は、なんでや、なんでや、とうなされているご主人の涙をそっと舐め取った。あとからあとからあふれ出てくる涙を絶え間なく舐め、体温をわけあうようにからだをくっつける。


 やがてご主人は泣くのをやめ、またいびきをかいて深い眠りに入った。


 それを見届けた『人面犬』は、ようやく再び眠りにつく。


 そうしている間に、空は朝焼けのきれいな色に染まっていた。

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