第三夜 口裂け女 5

 そして訪れた決戦の日。


 『怪異』のくせに真昼間からターミナル駅の改札口で、『口裂け女』は三十分も前からマスク男を待っていた。


 もちろん、待ち合わせはもう三十分後、つまり一時間前から待っていたことになる。いくらなんでも早く来すぎかと思ったが、念には念を入れなければならない。


 『怪異』である『口裂け女』はトレードマークのトレンチコート姿のままだった。メイクもするはずがないし、髪型だっていつものセンターパート黒髪ロングストレートだ。


 そういった点では、『怪異』はデートの服に迷わなくて気が楽だった。


 しかし、ここへ来るまでの道筋は長く険しいものだった。


 相変わらず毎日来るlineの内容は、デートについてのことが多くなっていた。ごはん何系が好きですか?だとか、アレルギーとか好き嫌いあります?だとか、マスク男は慎重に店を選んでいるらしかった。


 そのすべてに『特にないです』と答え、それが逆に店を選ぶ側の負担となっていることに気付かないところがコミュ障たるゆえんであろう。


 それでもマスク男は店を選んだ。オサレなイタリアンレストランのランチコースだ。サイトを見るといかにもお高そうなお店だった。こんなのをおごってもらっていいのだろうか……?と『口裂け女』の中に一抹の不安がよぎる。


 そこから先は日程のすり合わせだった。無論、空いている日はありません、と答えてデートを回避することもできたのだが、せっかく舞台を整えてくれたのだ、行かないというわけにもいかない。


 初めて会ったときにスーツ姿だったことからもうかがえるように、マスク男は会社勤めらしかった。土日が定休だそうだ。『口裂け女』は療養中の家事手伝いという設定なので、難なく次の土日に決まった。


 それからはイメトレの毎日だった。コミュ障メンヘラちゃんにとって、事前のこころの準備というものは非常に重要なのだ。


 禅僧の気分になって瞑想というより妄想を繰り広げる毎日。もしこういうことを言われたらこう受け答えしよう、もしこういうことが起こったらこう動こう、ありとあらゆる事態を想定して、『口裂け女』はイメトレにいそしんだ。


 イメトレさえ万全ならば、自信を持って挑める。何が起こってもこわくない、と自己暗示をかけているようなものだ。


 絶対に負けられない戦いが、そこにある。


 侍ジャパンのこころいきで、『口裂け女』はデート当日に臨んだ。


 ……そして、一時間前から待ち合わせ場所に立っているのである。


 さすがに早く来すぎたか。もし相手が現れたら、『今来たところ』と言うのだ。『今来たところ』、『今来たところ』……


「あ、もういる!」


「ひっ……!」


 いきなり背後から声をかけられて、『口裂け女』はすくみ上った。


「待たせちゃいました?」


「……あっ、三十分くらい……」


 結局、『今来たところ』とはいえず、バカ正直に答えてしまう。


「すいません、僕ももっと早く出ればよかったですね」


「……あっ、いえ……」


 もごもごと口を動かすも、気の利いた言葉が出てこない。やはり、実戦は早すぎたか……?


 一方のマスク男は初対面の時と変わらない猫毛に眼鏡、マスクだった。ただ、今日は私服を着ている。ちょっとオサレさんだ。何気に眼鏡のフレームも変わっていることに気付いた。


「……あっ、その、眼鏡……」


「今日もマスクがすごくお似合いで素晴らしいです!」


 マスク男はまずそこを褒めた。マスク男にとって最大級の褒め言葉らしい。拳を握り、感極まっていた。


「あふれ出る神秘のかおり……! そこに加わる目元の主張が際立つ……! やはりマスクはいいものですね! 最高です!」


 熱弁する姿に周りのひとがじろじろとこちらを見てくるが、お構いなしだ。『口裂け女』は注目されて気が気ではなかった。


 最後にサムズアップで締めくくり、マスク男はようやく熱弁をやめてくれた。


「駅から少し歩きますけど、足元大丈夫ですか?」


「……アッハイ……」


 いつもの靴なので問題ないが、ここでも気の利いた言い回しができない。事前のイメトレなど何の意味もなかったことに気付いてしまった。


「じゃあ、行きましょうか」


 自然な流れで差し伸べられた手を、しかし『口裂け女』は握り返すことができなかった。手をつなぐなどということは想定していなかった。そこまで想定が及ばないところが『怪異』の抜けたところだ。


 手を繋がず黙って突っ立っている『口裂け女』の様子から察してくれたのか、マスク男は手を引っこめて、こっちです、とうながしてくれた。


 道中いろいろとマスク男が話しかけてくれたが、『口裂け女』はそれどころではなかった。もう頭がコピー用紙に負けないくらい真っ白だ。右手と右足が同時に出る始末である。


 常に一・五メートルほど後ろを歩きながら、『口裂け女』はマスク男の話に相槌を打ってやりすごした。


 そしてたどり着いたのは、隠れ家っぽい雰囲気のレストランだった。隠れていない隠れ家ではなく、正真正銘知る人ぞ知る、というやつである。


「ここ、友達の友達がやってる店なんですよ。ランチコースがおいしいって評判で。量もちょうどいいし、行きつけなんですよ」


「……あの、私、あんまり食べられないかも……」


「そうですよね、僕もすでに胸がいっぱいです」


 などと冗談でかわして、マスク男は店内へと続くドアを開けて『口裂け女』を通してくれた。レディファーストである。


 店内はアンティークな調度品で整えられており、昼だというのに落ち着いた間接照明に照らされていた。ものすごく雰囲気のあるお店である。


 各テーブルにひとりついている給仕に席まで案内されて、白いテーブルクロスと大小のワイングラス、銀のカトラリーが並ぶ椅子へとおそるおそる座る。少しでも動けばテーブルクロスを引っ掛けたり、ワイングラスを倒したり、カトラリーを落としたりしそうでこわかった。


 対してマスク男はひどく気楽に座り、メニューを開いてこちらに渡してくれる。


 前菜からデザートまで、至れり尽くせりのコース料理が並んでいる。よくわからない外国語に、『口裂け女』は頭がくらくらした。


「まあ、そんなに気負わないでください。今日はおいしいものいっぱい食べましょう!」


 マスク男が気を遣って言ってくれるが、これが気負わずにはいられようか。もちろんこんなきちんとした食事は初めてのことで、テーブルマナーは一応予習してきたが、うまくやれるとは到底思えない。


 そんな折、給仕が前菜を運んできた。大きな皿にちょこんと盛り付けられている、季節の野菜とホタテのマリネだ。


「じゃあ、いただきましょうか」


 ごく普通にマスク男がマスクを外す。


 その瞬間、『口裂け女』は初歩的かつ決定的なミスをおかしてしまったことに気付いた。


 食事のためには、マスクを外さなければならない。


 それのことをすっかり忘れていた。


 こんな当たり前のことを失念していたなんて、もしかしたら自分はものすごい間抜けなのかもしれない。


 立派な前菜を前にして、『口裂け女』はおろおろとマスク男を見た。


「あれ? 食べないんですか? もしかして苦手なもの入ってました?」


「……あっ、いえ……その……!」


「遠慮せず言ってください。僕がふたり分食べますから」


「……ええっと、そういうことじゃなくて……その……!」


 メンヘラちゃんは想定外の事態に弱い。完全に出ばなをくじかれて、『口裂け女』は戦意を喪失し、ただただ狼狽するばかりである。


 必死に言い訳を考えて、それから。

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