第三夜 口裂け女 6
「……あのっ、私、ちょっと体調が良くなくて……!……あまり胃にものを入れられなくて……!」
つっかえつっかえ、出てきたのがそんな言い訳にもなっていない言い訳である。我ながらお粗末すぎて顔が真っ赤になった。
普通の男なら『だったら最初から来るなよ』とうんざりした顔をしただろう。しかし、マスク男は前菜を食べる手を止めて、心配そうに『口裂け女』の顔を覗き込んだ。
「大丈夫ですか!? 前も言ってましたけど、眠れない、食べれない、なんてきっとどこか悪いんですよ! すいません、そんな中で来てもらっちゃって……」
「……いっ、いえ! こちらこそ、本当に申し訳ないです……」
首を横に振りながらひっくり返った声音で返す『口裂け女』。どうやらマスク男は本気で『口裂け女』の体調を心配しているようである。
「大丈夫ですからね、食事は僕がふたり分食べますから。なにか飲み物は飲めそうですか?」
「……アッハイ……冷たい飲み物なら……」
それならきっと、ストローがついてくる。マスクの隙間からぎりぎり差し込めるだろう。
マスク男は追加でレモネードを頼むと、前菜をふたり分平らげてしまった。続く第一の皿も食べ、そうしているうちにレモネードがやってきた。
案の定ストローがついていて、おかげで『口裂け女』にも飲むことができた。レモンの香りと炭酸がさわやかなレモネードを飲んでいると、マスク男は第一の皿を食べ終え、
「ダメだな……失敗しちゃいましたね」
すべては自分の責任だと言わんばかりに苦笑した。
「いっ、いえいえ!! 本当にごめんなさい、せっかく連れてきてもらったのに……!」
「いいんですよ。あなたの体調のことを考慮に入れてなかったのがいけなかったんです。でも、こうしてあなたと同じテーブルにつけたのはよかった。飲み物だけでも楽しんでいってくださいね」
マスク男はあくまで紳士的に言って笑い、第二の皿に手をつけた。
自分の間抜けさにほとほと愛想が尽きた。こうしてマスク男に恥をかかせるようなマネをしでかしてしまったのだ、きっともう次はないだろう。
しょぼんとしてレモネードを飲みながら、『口裂け女』の脳裏に今までの楽しかった思い出が走馬灯のように駆け抜けていった。
早くも『いいひとだったなぁ』と過去形になっている。
そもそも、『怪異』の分際でデートなどというマトモなことをやろうとしたのがいけなかったのだ。おかしな生き物である自分が、常人と同じようにできるはずがない。
自己嫌悪のどん底に引きこもってしまった『口裂け女』に、デザートを食べているマスク男が声をかけた。
「そんなに気に病まないでください。誰だって体調の悪い時くらいありますよ。とにかく、僕はあなたと今日こうして会えたことだけで充分なんです」
にっこりと嘘偽りない笑みを浮かべたマスク男が告げる。
このひとは天使かなにかなのかな……?と、『口裂け女』は自分などよりよっぽど『出来た』人間であるマスク男を尊敬しさえした。
その尊敬は、いつしか違う感情を連れてくる。
……こわくない。
このひとは、こわくなかった。
けど、心臓がばくばくする。
見つめられて、甘い言葉をかけてくれるだけで、こんなにも胸が高鳴る。
「どうかしましたか? あ、口紅、ずれてるみたいですよ」
しかし、そのどきどきは別のどきどきへと変化してしまった。
マスクがズレて、大きく裂けた口がはみ出てしまっているのだ。
「ごごごごごご、ごめんなさい! 私、ちょっとお手洗いに!」
「ゆっくりお化粧直してきてくださいね」
食後のコーヒーを飲みながら『口裂け女』を見送るマスク男。
ばたん、とトイレの個室のドアを閉め切り、便座に座ってうなだれる。真っ赤になった顔を隠すように両手で覆い、『口裂け女』は胸の鼓動を押さえつけようとした。
バカな。この私が人間に恋をしている……!?
自覚してしまったら、あとはもうひたすらに身もだえるだけだった。
叶わないこと前提の、一種のゲームじみた駆け引きだったのに。
なのに、一瞬でも『このひとの恋人になりたい』と願ってしまった。
きっとこの思いは尾を引くだろう。この先ずっと、叶わないことが決まっている不毛な恋にとらわれ続けるのだ。
なんとも滑稽な話だった。
ようやく個室から出て、洗面台の鏡の前に立つ。
マスクを外して、みにくく引き裂かれた口を鏡に映した。
ほら、やっぱり自分はバケモノだ。
恋なんて上等な感情、持ってはいけないのだ。
その醜悪な姿を見ると、す、と体温が下がっていくのを感じた。
この恋は叶ってはならない。このまま終わらせなければならない。せめてきれいな思い出にするために、絶対にあの男に『好きだ』と言わせてはならない。
改めて決意すると、『口裂け女』はトイレを離れた。
「……あっ、お待たせしました……」
「いえ、ちょうどコーヒーを飲み終えたところです。お会計は済ませてありますので、行きましょうか」
マスク男はどこまでもスマートだった。実際に会うまでは気付かなかったことがたくさんあって、そのすべてが『口裂け女』のこころに訴えかける。
席を立つマスク男のあとに続いて、『口裂け女』も店を後にした。
「少し散歩でもしましょうか」
笑いかけるマスク男に、『口裂け女』はこくりとうなずいて返した。
海が見える公園まではすぐだった。
カモメが行き交う遊歩道を一・五メートルの距離を置いて歩きながら、絶え間なくマスク男が話しかけてくる。
『口裂け女』はどこか上の空で相槌を打ち、これ以上距離を縮めるべきではないと自分に言い聞かせ続けた。
「……どうしました? もしかして、まだ調子悪いですか?」
ふと立ち止まったマスク男が『口裂け女』の顔を覗き込んでくる。飛び退るよりも先に、マスク男の手が『口裂け女』の額に伸びた。
「うーん、熱はないみたいですけど……」
触れられた部分が熱い。こんなにも近くにいるのに叶わない恋だなんて。ダメだ、このひとの恋人になりたい。だから、それは無理だって。
「ど、どうしたんですか!?」
呼吸を乱しすぎた『口裂け女』は目を回してその場にうずくまってしまった。メンヘラちゃん特有の過呼吸である。
「と、とにかく休みましょう!」
慌てて『口裂け女』を抱えてベンチを探すマスク男。さいわいにもベンチはすぐそこに空いており、そこに座らされた『口裂け女』のもとに、冷たい飲み物を持ったマスク男が戻ってくる。
「ほら、マスクしてると余計にひどくなりますよ!」
「……ひゅー……ひゅー……いえ……コロナがこわいので……!」
「だったら無理にとは言いませんけど、とりあえずお水、飲んでください」
わざわざストローを刺してくれているペットボトル。冷たい水は熱くなった頭をさましてくれた。
『口裂け女』が落ち着くまで、マスク男はずっと背中をさすっていてくれた。こんなメンヘラちゃん、捨て置いても構わないのに、どうしてそんなにやさしくしてくれるのか。
これ以上好きになって、責任取ってくれるのか?
過呼吸に苦しみながら、『口裂け女』はマスク男に責任転嫁をしてしまった。恋愛初心者の悪い癖である。
ようやく正常な呼吸に戻ってきたところで、マスク男は心配そうな顔をして、
「やっぱり今日は調子が悪いんですよ。すいません、こんな日にデート誘ったりして……」
「……あっ、いえ、こちらこそ申し訳ないです、せっかく誘ってくれたのに……」
「もしよかったらでいいんですけど、また今度、リベンジさせてくれませんか?」
「……アッハイ……」
「やった! じゃあ、今度は体調の良さそうな日、教えてくださいね!」
デートとしては散々だったのに、マスク男は次の約束を取り付けてうれしそうにしている。本当に、このひとは聖人君子なのではなかろうか?
いろいろあって太陽もだいぶん傾いてきた。『口裂け女』が調子を取り戻したのを見計らって、マスク男は立ち上がる。
「名残惜しいですけど、今日はここまでですね。送ります」
「……いえ……!……すぐそこなんで、大丈夫です……!」
「そうですか?」
すると、マスク男はタクシーを呼び止めてなにやらやりとりをして、お金を払うと『口裂け女』を乗せてしまった。
「とにかく、ゆっくり休んでください。お体に気をつけて。またlineしますから」
「……あっ、あの!」
『口裂け女』が口を開くと同時に、タクシーのドアが閉まって発進してしまった。
ありがとうも言えなかった。自分のどんくささにあきれる。
タクシーに揺られながら、もうちょっとだけこの両片思いを楽しもう、と言い訳めいたことを考えて、『口裂け女』は帰路に就いた。
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