第三夜 口裂け女 4

 何ごとも訓練だ。意を決した『口裂け女』は入力しかけていた内容を消去し、


『いいですよ』


 一連の狼狽を隠す絵文字をつけてそう返信した。


『やったー!』


 うれしそうなスタンプを送って来るマスク男。いいだろう、お前は練習台だ。


 スマホを握る手に思いっきり手汗が浮かぶ。


『じゃあ、かけますねー』


 メッセージが来た直後、通話の通知が飛んできた。


 この通話を受けるというボタンを押せば、もう戻れない。


 考え直すなら今の内だ。


 いやいや、コミュ障メンヘラちゃんを克服するためにも、ここは思い切りが必要だ。


 『口裂け女』の中で短い脳内裁判が開かれ、結果、『口裂け女』は通話を受けるボタンを押してしまった。


『……もしもし?』


 スマホからマスク男の声が聞こえる。


「……もしもし……」


 つい鼻息が荒くなってしまい、不審者のいたずら電話みたいになってしまった。


『あ、よかったー、電波届いて』


 そういえば、以前電波の届かないところに住んでいるというウソをついた覚えがあった。マスク男の言葉に早速ひやりとしたが、それ以上の追及はなかった。


「あっ、はい、おかげさまで……」


 やはり、実際に言葉を交わし合う通話というものは難度が高かった。すでに続きの言葉を見つけようとしても見つからない状況が発生している。


 しかしマスク男はスマートに会話を引っ張ってくれた。


『僕、今風呂入ってたとこなんですよ。寝る前に声聞けたらなーと思って、誘ってみました』


「……それは、どうも……」


『また声が聞けてうれしいです!』


「……はい……」


 もはや思考回路はショート寸前だ。完全に相槌打ちマシンになってしまっている。


 この決断は早すぎたか……?と考えていると、マスク男はふぅん、と意味ありげに鼻を鳴らした。


「な、なんですか?」


『……いえ、ね……』


 ないしょ話をするように声を潜めて、マスク男は言った。


『改めて聞くと、きれいな声だなぁって。こういうの、鈴が転がるような、って言うんですよね?』


 不意打ちの先制パンチを食らって、『口裂け女』はノックダウンされてしまった。もうなにも思い浮かばない。


『もしもーし? あれ? やっぱり電波悪いのかな?』


「だだだ、だいっじょうぅぶですぅ!」


 まだ始まったばかりだ、と気を取り直して、『口裂け女』は嚙みながら返事をした。


『よかった。まだ時間ありますよね?』


「……アッハイ……」


『じゃあお話しましょう。いつも何時ぐらいに寝てるんですか?』


「……あっ、基本夜はあんまり寝ないんで……」


『夜勤ですか? それとも不眠症ですか?』


「……ふ、不眠症です……」


『えー、心配です。ひどかったら病院行ってくださいね?』


「……アッハイ……」


『今日夕飯何食べました?』


「……あっ、コーヒーとビスケットを……」


『ダメですよそんなんじゃー! ますます痩せちゃいますよ!』


「……あっ、すいません……」


『ああ、別に怒ってないですからね? ただ、あなたのことが心配なんですよ』


「……アッハイ……」


『ちゃんと生活できてるかとか……この前みたいに、また変な男に声かけてるんじゃないか、とか……』


「……あっ、それはもう、やめました……」


『ならよかった! けど、あの行動のおかげで僕たちは出会えたんですから、そこは感謝ですね!』


「……アッハイ……」


 いちいち言葉の前に『あっ』をつけなければ話せない、コミュ障メンヘラちゃんあるあるだった。マスク男のリードがなければ、こちらは相槌を打つだけでやがてはあの気まずい沈黙がやってきたことだろう。


 マスク男はやはり会話上手で、うまくこちらの言葉を引き出してくれる。つたないながらも、『口裂け女』はそれに必死に応じた。奇跡的に会話が成立している。


 自分はこういう会話もできたんだ……!と、『口裂け女』の成功体験が積み上がっていった。


 徐々にチルアウトしてきたふたりは、ぎこちないながらも声で会話をして、時折笑いあうまでになった。マスク男はよほどのコミュ強なのだろう。


 まだ隔たりはあるものの、ある程度打ち解けたふたり。


 ふと、会話の合間に『口裂け女』が尋ねる。


「……あの、私と話しててそんなに楽しいですか……?」


 こわごわと触れてはいけないものに触れるように言うと、マスク男は即答する。


『ええ、とっても楽しいです!』


 言葉の調子からは、ウソはうかがえなかった。本当に『口裂け女』との会話を楽しんでいるようだった。


 内心ひどく安堵しながら、『口裂け女』は続ける。


「……ごめんなさい、付き合わせちゃって……」


『とんでもないです! 逆に、僕ばっかり話しちゃってすいません』


「……あっ、それはいいんです……むしろその方がありがたいというか……」


『……あの、もしもですよ? 弱みに付け込むようで申し訳ないんですけど、もしもごめんなさいって思うなら、今度休日が合った日にランチでもごちそうさせてくれませんか?』


「はっ、はいぃ!?」


 二度目のヒットをもらい、『口裂け女』は再びノックダウンされた。


 意味が分からない。なぜ自分をランチに誘うのか? しかもオゴリだ。


 混乱の坩堝に落ちて、『口裂け女』はびっしょりと冷や汗をかいた。


『……やっぱり、困りますか?』


「……あっ、いえ、あの……」


『じゃあ、ランチいっしょしてくれます?』


「……アッハイ……」


『やったー!』


 スマホの向こうから歓声が聞こえてくる。気付けば話の流れでランチデートをすることになってしまった。つくづく自分のコミュ障が憎らしい。


『いつにするかとかはlineで調整しましょう! ああー、楽しみ!』


「……あっ、ソウデスネ……」


『じゃあ、もう遅いんでこれくらいにしときますね。ちゃんと寝てくださいよ?』


「……アッハイ……」


『また連絡します! おやすみなさーい!』


 そう締めくくり、マスク男は通話を切ってしまった。


 なんなんだこの展開は……! 充分に間合いを取っていたはずなのに、確実に距離を縮められている……!


 まだばくばく言う心臓をなだめながら、『口裂け女』はなにかとんでもないことをしでかしてしまったような気持ちになる。


 この自分がデート? 『怪異』であるはずの自分が人間の男と?


 なにより、コミュ障メンヘラちゃんの自分が他人とそんなことを!?


 静かにうろたえていると、lineの通知音が鳴った。


『ランチデート、楽しみにしてます。おやすみなさい』


 語尾についたハートマークにさえ動揺してしまっている。


 どうしよう……とその場の勢いに流されてしまったことを悔やみながら、『口裂け女』はきたる決戦の日まで戦々恐々とする羽目になったのである。

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