第三夜 口裂け女 1

「……私、きれい?」


 今日も今日とて、夜道を行くひとりの男に声をかける、トレンチコートを着た長い黒髪の女がひとり。マスクで覆われているせいで顔の下半分は見えなかったが、目元は涼やかな美人である。


 男は一瞬面食らったように立ちすくんだが、狂人のたわごとと受け取ったのか、すごすごとその場を後にする。


「ねえ、私きれい? 私、きれい?」


 その後も女は男に付きまとい、しつこく問いかけた。無視をして速足で歩いていた男だったが、とうとう堪忍袋の緒が切れたのか、


「キャッチなら他でやってよ! 警察呼ぶよ!?」


 スマホを見せつけ、110番画面を見せつける。


 もちろん、このご時世、男もマスクをつけていて顔の下半分はわからない。


「……アッ、すみません……」


 消え入るような声で謝った女は、そのまま闇へと帰っていった。あとに残された男は怪訝そうな顔をして足早にその場を立ち去る。


「……はぁ」


 女はため息をついてマスクを取った。


 その顔の下半分は大半が盛大に裂けた口で占められており、グロテスクな口腔の赤がむき出しになっている。


 女は『口裂け女』という『怪異』だった。


 そう、『怪異』だ。


 発生源もあやふやな情報が人口に膾炙し、爆発的に膨れ上がる過程で明確なイメージを得、そしていつの間にかこの世界に実像となって顕現した『怪異』。それはひとびとの恐怖の具現化であり、ひとさじの好奇心という夢物語の受肉である。


 偏在するロアの誕生だった。


 女は『口裂け女』と呼ばれる都市伝説から発生した『怪異』である。ある日夜道を歩いていると、マスクをした涼やかな美女が問いかけてくる。『私、きれい?』と。きれいだと答えると、『これでも?』とマスクをはがし、その下の大きく裂けた口をあらわにし、鎌で襲いかかってくる。


 そういう(おそらくは)架空の現代伝承から生まれた『口裂け女』は、今日もキャッチ活動にいそしんでいるのだ。


 しかし、『口裂け女』はずいぶん古い都市伝説から誕生した『怪異』である。何十年も前は連日雑誌に取り上げられ、一大社会現象として名をはせた『口裂け女』であるが、今現在その存在は『ああ、そんなのいたな』という昔語りにしか登場しない。


 加えて、このコロナ禍である。マスクをしている方が普通の社会になって、『口裂け女』の居場所はますますなくなった。


 今や、『口裂け女』は過去の遺物になりつつある。


 それでも、『怪異』として生を受けたおかげで、今夜も『口裂け女』は夜道を行くひとにお定まりのやりとりを期待しつつ声をかけているのだ。


 しかし、結果は一向に出なかった。


 誰一人として『口裂け女』を不審がらずに、ただのキャッチや逆ナンだと思って通り過ぎていくのだ。


 誰もこわがらないし、誰もその存在を知らない。


 ただ、ここに醜い顔があるだけである。


 懐に携えた鎌も出番がなく、新品だった。


 しかし、それでよかったのかもしれないと『口裂け女』は思う。


 いつもそうやって脅かしてはいるが、実際にはこわくてひとなど殺せないだろう。殺そうとすれば、当然反撃される。その反撃がこわいのだ。


 『口裂け女』は完全にメンタルが豆腐なメンヘラちゃんだった。


 『怪異』のくせにひどいビビりだった。


 暗闇の中で元通り裂けた口元をマスクで覆い隠し、再びため息をつく『口裂け女』。


 今日も成果は上がらなかったが、落胆半分安心半分といったところだ。このままずっとマスクが当たり前の社会であってほしいとすら願う。そうすれば、自分は普通の存在になれるからだ。


 こんな一昔前の『怪異』、この調子で誰にも相手にされずすたれていくのが一番だ。それが世のためでもあるし、『口裂け女』自身のためにもなる。


 『口裂け女』はなによりも、マスクの下を晒したときのみじめな気持ちを恐れていた。バケモノじみたブスなど比ではない、本物のバケモノなのだから。きっと、この素顔を見たものは『口裂け女』の容姿を散々おそれ、罵り、逃げ出していくだろう。


 そんなことになるのは絶対にイヤだった。好きで口が裂けて生まれてきたのではない、『口裂け女』だから仕方なく口が裂けているだけなのに。


 遭遇したものはそんな事情など知りもしないだろう。哀れな醜いバケモノを前にして立ちすくみ、話し合う間もなく逃げ去ってしまう。


 だからこそ、メンヘラちゃんになったのかもしれない。


 あれがこわい、これがこわい。『口裂け女』にとって、世の中こわいことだらけだった。これでは『怪異』として失格だ。


 だとしても、『口裂け女』は夜道に立つことをやめない。


 そういう風にできているからである。


 どうか『きれい』と言われませんように……と祈りながら、今日も『口裂け女』はキャッチ活動を続けるのだった。


 


 別のある日のこと。


 『口裂け女』は夜道でひとりの男に目をつけた。当然のごとくマスクをしており、少し背が低く、猫毛で眼鏡の気が弱そうな男だった。


 きっと、あの男ならすぐに立ち去ってくれるに違いない。今夜のターゲットをその男に決めて、『口裂け女』は闇から溶け出し男の前に姿を現した。


「……私、きれい?」


 うつむいて問いかける『口裂け女』には、なんのリアクションも帰ってこなかった。不思議に思って顔を上げると、そこには眼鏡の奥の瞳をきらきらさせている男の姿があった。


 イヤな予感がする。


 う、と後ずさった『口裂け女』に、男はずいっと詰め寄った。


「お姉さん、マスクすごくよく似合ってますね!」


「……は、はい?」


 見当違いな褒め方をされて、『口裂け女』は思わず間の抜けた声を上げてしまった。それに構わず、男はぺらぺらと熱弁を振るい始める。


「こんなにマスクが似合うひとも珍しい! まるでマスクをつけるために生まれてきたようなひとだ! 僕はそこに神秘性まで見出しますね! いやぁ、マスクはいいです! 最高です! 内に秘めた情熱を覆い隠すかのようなマスク! 別人にもなれるマスク! そもそもマスクとは……」


 ぺらぺらぺらぺら。男はここぞとばかりにマスクへの愛を語りまくった。これにはさすがの『怪異』もドン引きである。


 よりにもよって、引き当てた男は重度のマスクフェチだった。マスクの神秘性だとかヴェールに包まれたなんかだとか、神の聖骸布だとか、そういう次元にまで話が及んでいる。付き合っていたら夜が明けて昼になっても終わらないだろう。


「……ええと、あの……やっぱり、いいです……」


 歪んだ口元をさらに歪ませながら、『口裂け女』は手で壁を作りじりじりと退路を確保しようとした。

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