第一夜 ベッドの下男 9
また別のある日のこと。
女は相変わらず夕方起きてきて、しばらくスマホをいじったあとで夕食を食べ、そのあとは『ベッドの下男』とゲームをしていた。
いつの間にかゲームも上達していて、女にも褒められた。
ネット対戦を終えて、じゃがりこが空になった。
まだやる気なのか、女は新しいじゃがりこを開封してカーペットの上に置くと、
「このゲームもだいぶやりこんだよね。別のゲーム探してみる? ふたりでできるやつ」
そんな言葉に、『ベッドの下男』はこんこんとベッドの天井を叩いて同意を示した。次はどんなゲームにしようか、そんな楽しい悩みで頭をいっぱいにしていたときのことだった。
「あ、そうそう。今度ベッド買い替えるから、一旦出てきてね」
何気なく女が口にした言葉に、『ベッドの下男』は凍り付いた。
『ベッドの下男』がベッドの下から出てくるだなんて、アイデンティティに関わる問題だ。自分はこの場所しか知らず、外に出てどんなことが起きるのか想像もできない。
もしかしたら、消えてしまうのではないか?
そんな不安でからだがすくむ思いだった。
怯えている『ベッドの下男』の手をぎゅっと握りしめ、女は抱きしめるような言葉を口にする。
「大丈夫。なにもこわいことなんて起きないよ」
『ベッドの下男』が伝えたかった言葉を、今度は女が口にした。
そうだ、女は変わったのだ。
ならば、自分も変わらなければならない。
そうやって互いにより良くならなければ。
『ベッドの下男』はその言葉にすがる思いで握られた手を握り返した。
その日の夜はずっとゲームをしていて、明け方女はベッドの下で眠りについた。
急にベッドを買い替えると言い出した女。
まさか、これは別れを意味しているのではないか?
たしかに、女はほんの少しだけマトモになった。
マトモになったからにはマトモな相手が欲しいだろう。
こんな得体の知れない『怪異』ではなく。
だとしたら、これでサヨナラだ。
服を着て眠っている女の細い首筋を見下ろす。その首に両手を這わせてみた。
別れるというのなら、いっそ……
自分がおかしなことを考えていると気付いて、はっとする。
首に触れていた両手で女を抱きしめ、自分に言い聞かせた。
これでいい。
その方が女がしあわせになれるなら。
たった一瞬でも思いが通じ合っただけでも、『ベッドの下男』はしあわせだった。感謝しこそすれ、恨むようなマネはしたくなかった。
最後は笑って別れよう。
もう幾ばくもない時間をいつくしむように、『ベッドの下男』は女の頬に自分の頬をすり寄せた。
一週間もしなかっただろう。
宅配会社が新しいベッドを届けに来た。もうこの場所とはお別れだ。
ひどい恐怖を感じながら、『ベッドの下男』はベッドの下から這い出てきた。
両の瞳と肩から先の腕、それ以外はひとの形をしたもや。
半端物のからだを女の眼前にさらして、『ベッドの下男』は緊張で息が詰まりそうだった。
どうか、これからもしあわせに。
そう思いを込めて頭をなでようとしたとき。
「……やっと出てきてくれた」
女の方が先に『ベッドの下男』を抱擁した。はっきりしない輪郭を抱きしめ、女は続ける。
「私、ちゃんと君に言ってなかったね」
ああ、ここでもうサヨナラか。『ベッドの下男』に顔があったら、泣き笑いのような表情をしていただろう。
「今までありがとう」
もやもやの胸に顔をうずめ、女が言った。『ベッドの下男』にとっては、その言葉だけで充分だった。
このベッドを出た後、自分はどうなるのだろうか。
目的を果たせなかった『怪異』たる自分は消滅してしまうのだろうか。
それとも、今度は別のベッドの下に潜むことになるのだろうか。
この女とは別の女の部屋で。
それだけは考えたくなかった。ならいっそ消滅した方がマシだ。
女はかなしんでくれるだろうか?
それよりも、一晩だけ泣いてあとは笑って過ごしてほしい。
そんな思いを込めて、『ベッドの下男』は女を抱き返した。
愛していたよ。もし一言だけしゃべることができたら、きっとそう言っただろう。
すっかり別れる気でいる『ベッドの下男』を抱きしめたまま、女は驚愕の言葉を継いだ。
「今度のベッドは下が広いやつだからね」
…………??
「私も狭苦しかったんだ。その狭苦しい空間にあなたはずっといたわけでしょ? だったら、ふたりで過ごす空間として、もっと下が広いベッドが欲しいってなったの。私、実は在宅ワークでお小遣い稼いでたんだよ」
つまり、『ベッドの下男』はこのままずっと女のベッドの下に居続けることができる……?
あまりにうれしい展開に、思考が追いつかない。
とりあえず女と別れずにいられるとわかって、『ベッドの下男』は思い切り女を抱きしめた。
「あはは、痛い痛い。そんなにうれしいの? 君がうれしいなら私もうれしい」
こんなかわいらしい存在、このまま抱き潰してしまった方がいいに決まっている。くく、と喉を鳴らした声を持たない『ベッドの下男』は、そう思ってぎゅうぎゅうと女の細いからだを抱き続けた。
「これから春が来るよ。だから、もっともっといろんなことしよう。私もできるだけがんばる。だから、いっしょにいて。この次の春も、この次の次の春も、これから先ずーっと」
実質、それはプロポーズだった。
『ベッドの下男』はそれに応じて女の左手首を取ると、その傷跡に誓いの口づけを落とした。
自分たちならではの契りだった。
最初は興味本位だった。
やがて半端物同士はゆっくりと惹かれ合い、ひとつになった。
いびつでもいい、きっとこれが『しあわせ』だ。
胸がいっぱいになった『ベッドの下男』は、そのまま女をベッドの下に引きずり込んだ。
「あはは、ダメだよ、新しいベッド来てるのに」
知ったことか。あとで組み立てを手伝ってやるのだが。
ともかく今は、君が欲しい。
『ベッドの下男』はベッドの下で、世界で一番いとおしいイカれた女にキスをした。
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