第一夜 ベッドの下男 8

 ずいぶん長い間そうしていた。『ベッドの下男』には体温があるのか、女はずっと寄り添ってぬくもりをわけあっている。もやもやしていたからだの輪郭が、次第に黒い形を成していくことに気付いた。


「……ねえ」


 甘えるような声音で女が呼びかける。


「……セックス、しようか」


 ぐびり、と『ベッドの下男』の喉が鳴った。自分が欲しがっているものをずばりと言い当てられて少なからず動揺する。


 完全に人間の男性の形になった『ベッドの下男』の胸に触れながら、女はささやくように告げた。


「……いいよ」


 先ほど、女は『セックスは自傷行為の一環』と言っていたが、これもそうなのだろうか? だとしたら自分は止まらなければならない。


 しかし、そう短くはない時間をいっしょに過ごしてきたせいで、声のトーンでわかるようになっていた。これは自傷行為をするときの声ではないと。


 『ベッドの下男』は試すようにこわごわと女のくちびるをキスでふさいだ。弾力のあるやわらかな感触の甘さに、『ベッドの下男』はくらくらした。


 女は抵抗もせずに、それどころか今度は女からついばむような口づけを返して笑う。狭いベッドの下で密着しながら、どくどくとうるさいぐらいに胸が早鐘を打っているのが分かった。


 『ベッドの下男』は、ずっとやってみたかったことをすることにした。


 女の傷のある左手首をそっとつかむと、その傷跡に舌を這わせる。当然ながら味はしなかったが、なにかしらの達成感はあった。


「……ありがと」


 女の鼻声が聞こえると、『ベッドの下男』はすべての傷を舐め尽くすように、女の生きた証に口づけた。


 最後に、もう一度小さなキスをくちびるに。


 女はくすくす笑いながら暗闇の中でささやいた。


「さあ、これからどうする?」


 小生意気そうに言うので、『ベッドの下男』はより深い口づけで答える。


 そうして、ふたりはベッドの下でいっしょになって夜を越えた。


 すべてが終わって、スウェットという殻を脱ぎ捨てた女の裸体を抱きながら、『ベッドの下男』は思う。


 なぜ自分なのか?


 なぜ『怪異』である自分に身も心も許したのか?


 額を合わせて伝われ伝われと念じながら問いかけると、つながったせいなのか、女にはすぐ伝わったようだった。


「なんでかって? そりゃあ、君が好きだからだよ」


 眠そうな顔をしながら当然のごとく応じる女。


 好き。


 好きとは、どういった感情なのか?


 言葉では言い表せないが、きっと今の『ベッドの下男』と同じ状態のことを『好き』と言うのだろう。


「臆病で、ゲームがあんまりうまくなくて、笑いのツボがわかんなくて、いっつも私の心配ばっかりしてくれて、いっしょにテレビ見てくれて、眠れない夜もベッドの下にいてくれて……そういう君が、大好きなんだよ」


 たしかめるように女は続けた。


 その言葉のひとつひとつが一粒の真珠のように美しくて、いとしさのあまり『ベッドの下男』は思い切り女を抱きしめた。


「あはは、苦し」


 女は笑うが、『ベッドの下男』は泣きそうだった。涙は備わっていないようだが、胸が苦しい。


 ああ、自分は『怪異』でも人間でもない。


 どっちつかずの半端物だ。


 しかし、たしかなことがある。


 結局自分は、ただの男なのだ。


 女と番うために生まれた、ただひとりの存在なのだ。


 たぶんそれでいい。


 合っていようといまいと、それでいいのだ。


 壊れたこころを抱えて泣いている女のもとに、神様とやらが派遣したただの男なのだ。


 生まれてきた理由はそれだけでいい。


 『怪異』だとか人間だとか、そういうカテゴライズはどうでもいい。


 そう知らしめてくれた女は、やはりマトモではなかった。


 イカれていて、最高だった。


 『ベッドの下男』は固く女を抱きしめていた腕をほどき、腕枕をして女の髪をなでた。しばらくあやすようになでていると、やがて女の寝息が聞こえ始める。


 きっと、いろいろあって疲れていたのだろう。もうカーテンの隙間からは朝日が差し込んでいる。


 こんなにもきれいに透き通った朝日を見るのは初めてのことだった。


 そんな風に世界を変えてくれた女には感謝しかない。


 『ベッドの下男』は裸のままで眠る女を緩く抱きしめ、せめて甘い夢を見られるようにとずっと背中をさすっていた。


 


 しばらくの間、女はベッドの下に潜り込んで眠るようになった。どういう心境の変化か、いっしょにゲームをして夜が更けてくると『ベッドの下男』のテリトリーに侵入してくる。そして、ひとつだけキスをするのだ。


 セックスをする日もしない日もあった。確実なことがあるとすれば、女は『長風呂』をしなくなった。男を連れ込む気配もない。完全に自傷行為をやめてしっまったのだ。


 生活の一環のようにベッドの下に入ってくる女は、傍から見れば至極みょうちきりんだろう。


 しかし、『ベッドの下男』との生活にはなくてはならない行為だ。


 女はこころの病の象徴である左手首の傷口に触れることを許し、『ベッドの下男』は自分のテリトリーである暗闇に女が侵入してくるのを許した。


 そうしてお互いに距離を縮め、ふたりは恋人同士と言っていいような関係になった。


 以前と同じようにゲームをしたりテレビを見たり、やることはあまり変わらなかったが、互いの存在を真に受け入れられるようになった。


 それはひとりの男として、実に感慨深いものだった。


「……ねえ」


 からだを重ね始めて幾度目か、女がまぶたを半分下ろしながら言った。


「……私さ、今までずっと、自分は生きてちゃいけない人間なんだって思ってた……けどさ、君といると、なんだか生きててもいいんだって思えるようになったんだ……」


 なんでだろうね、と笑う女の背中を、『ベッドの下男』はやさしくさすった。


「……生きてる意味とか、そういうの考えるのやめにした……なんとなく、自分が生きていたいって思えれば、それでいいんだって……それを君が許してくれるなら、ここにいてもいいのかな、って……」


 それは共依存そのものだったが、女の中にも『ベッドの下男』の中にもそういった認識はまったくなかった。


 恋人関係というものが共依存関係に近いものだと言われてみれば、そうなのかもしれない。


 『ベッドの下男』は女を許すことができた。そして、女はそれを受け入れることができた。


 共依存だろうとなんだろうと、それで充分だと思えた。


「……最近、明日君となにしよう、ってよく考えるんだ……お出かけはできないけどさ、いろんなことしたいなって……私、君がいるから……」


 最後の方は半分寝言のようだった。すぐに女は眠りについてしまう。最近では薬なしでも眠れるようになっていた。以前のように薬を過剰服用することもない。


 良い兆候だな、と『ベッドの下男』は満足げに女のからだを包み込んだ。


 このままずっと、ときが止まればいいのに。


 『ベッドの下男』は月並みだがそう思った。


 いつも通りを永遠に。それがひとつのしあわせの形のように感じられた。

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