第一夜 ベッドの下男 7

 また別のある日のことだった。


 女は昼から夜までずっとスマホにかじりついていた。『ベッドの下男』とテレビやゲームを楽しむことはなかった。


 やがて夜も更け、深夜を回ったころ、女はなぜかいつものスウェットではなくスカートをはいて出かけていった。


 こんな時間に出かけるなんて、今までになかったことだ。『ベッドの下男』の胸中がイヤな予感でいっぱいになった。


 待っている間中、なにか良からぬことに巻き込まれているのではないか、事故にでも遭っているのではないのか、と気が気ではなかった。


 そして二時間ほど経ってから、女は帰ってきた。


 見知らぬ若い男を連れて。


「なんもないけど上がってー」


 女は若い男を招き入れると、ドアに鍵をかけた。


 若い男は今どきの恰好をした少し軟派そうな男だった。ピアスをたくさん開けて、ニット帽をかぶっている。


「おじゃましまーす」


 そう言うと、若い男は女の部屋に足を踏み入れた。


 イヤな表情だ。にやにや笑って、どこか下卑ている。『ベッドの下男』はどうしてもそれが受け付けなかった。


 女はベッドの上に座り、若い男もその隣に座る。


 若い男がなれなれしく女の肩を抱いた。


「……ねえ、ほんとにいいの?」


 耳元でささやく若い男に、女は笑いながら言った。


「うん、いいよ」


 そう答えると、女は若い男にキスをした。


 これから何が始まるのかは『ベッドの下男』にも想像がついた。


 やめろ。


 やめろやめろやめろやめろやめろ!!


 急速に膨れ上がった怒りに似たなにかに突き動かされて、『ベッドの下男』は斧を握った腕を振り上げた。


 どす!と音がして、マットレスに鋭い斧の刃がめり込む。


「な、なんだ!?!?」


 女を押し倒そうとしていた若い男が混乱している。それはそうだろう、いきなりベッドの下からはえてきた腕が斧を振り下ろしてきたのだから。


 もう一度、今度は若い男に当たるように斧を振り上げると、若い男は悲鳴を上げながらこけつまろびつ玄関のドアから飛び出していった。


 あとに残ったのは、静寂に響く『ベッドの下男』の荒い息遣いだけだった。


「……やっぱこうなっちゃうよね」


 女はこの展開を予想していたようにつぶやく。


 予想していたのなら、なぜ男を連れ込んだ?


 斧を振り上げたまま、『ベッドの下男』は責めるでもなく不思議に思う。


 壊れたベッドのスプリングをきしませ、女はごろんと横になった。


「たまにマッチングアプリで捕まえるんだよ。そんで、セックスしてサヨナラ。セックスしてると、自分が求められてるって、必要なんだって思えてさ。ただの性欲解消の道具なのに、バカだよね」


 女はそこまで理解していた。だとしたらなおさらなぜ?と問いかけたくなる。


「リスカといっしょ。生きていくのに必要な確認行為。これもある意味自傷の一環だよね。そうせずにはいられないの。私が生きていていいんだって思うためには、これが必要なの」


 女が『必要だ』と言うのなら、『ベッドの下男』はよろこんでそれを受け入れるべきだ。


 しかし、それはどうしてもできなかった。


 自分のすぐ上で女が別の男に抱かれている。そういった場面を想像するだけで吐き気を催した。自傷行為は許せるのになぜ他の男とのセックスは許せないのだろうか?


 自問すると、答えは案外するりと出てきた。


 要するに、自分はこの女に恋をしているのだ。


 他の男に渡したくない、自分だけのものにしたいという感情を『恋』と呼ぶのなら、きっとこれは『恋』なのだろう。


 泣いている女。笑っている女。そのすべてをひとり占めにしたい。


 分不相応な独占欲だとはわかっていた。


 が、この恋ごころを止めることはできなかった。


 『怪異』が人間に恋をするだなんて。馬鹿げている。滑稽だ。


 しかし、滑稽だと笑われても、『ベッドの下男』はこの恋ごころを曲げる気はまったくなかった。


 自覚するとどんどん感情があふれてくる。つぼみだった思いがほころび、花開いた。


 いとしい。恋しい。どこにも行かないでほしい。自分だけを見てほしい。


 自分だけのものになってほしい。


 愛とは違ってエゴ丸出しの恋だったが、初めての感情に『ベッドの下男』は戸惑いを隠せなかった。ぽろ、と手の中から斧がこぼれ、カーペットの上に落ちる。


 興味はいつしか好意へと代わり、恋愛感情に昇華した。


 今、たしかに『ベッドの下男』は恋をしている。


 胸がざわつき、呼吸が速くなり、思考が鈍った。


 そんな『ベッドの下男』の心情を見透かしたように、女はベッドの下を覗き込んで笑う。


「ねえ、なんで私があの男とセックスするの止めたの?」


 言い様のない恥ずかしさが込み上げてきた。こんな感情、知らなかった。つたなく幼稚で、芽吹いたばかりの感情。それは『ベッドの下男』のキャパシティを完全にオーバーしていた。


 困ったように笑いながら女が言う。


「ごめん、もうやらない。だから、機嫌治して」


 頼み込むように言われても、この感情は収まらなかった。


 そこで『ベッドの下男』は衝動的な行動に出てしまった。


 両腕を伸ばすと、女の細いからだを捕まえ、そのままベッドの下に引きずり込んでしまったのだ。


 初めてテリトリーへ招き入れた女は、きょとんとした顔をしていた。なにが起こったのかよくわかっていないらしい。


 以前、『むらむらしないの?』と聞かれたが、今はその状態にある。なにか得体の知れないものを渇望して、胸が高鳴った。


「……驚いた」


 女がぽつりとつぶやく。


「本当に腕と目だけなんだね……からだがもやもやしてて暗闇に溶けてる」


 輪郭もあやふやな『ベッドの下男』のからだをふわふわと手でたどって、女が微笑んだ。


「けど、一度見てみたかったんだ。君のからだがどうなってるのか」


 バケモノ、と蔑む言葉はなかった。ただ、聖域に招き入れられた僧侶のように語り掛ける。『ベッドの下男』はこころの底から安堵した。


 ためしに、両腕で女を抱きしめてみる。ずっとやってみたかった行為だ。


 女は簡単に腕の中に収まり、もやもやの暗闇に包み込まれてしまった。


「案外苦しくないね」


 胸になつくようにしてそう言う女は、『ベッドの下男』の暴挙をすっかり受け入れていた。いたずらに付き合う慈母のようなまなざしで。


 しばらくの間、『ベッドの下男』は女を抱きしめたまま離さなかった。


 ずっとこうしていたい、いや、もっと深くつながりたい……


 欲は欲を呼び、また見知らぬ感情が顔を出す。

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