第一夜 ベッドの下男 6

 それからしばらくは、女の調子が良かった。


 女自身が言っていた通り、『ベッドの下男』がそばにいると比較的眠れるようだった。夕食だけだが食事もとり、薬もちゃんと規定量を飲んでいるようだ。昼過ぎに起きて『ベッドの下男』に話しかけながらスマホをいじり、夜になって夕食を食べ、深夜はずっといっしょにゲームをし、朝が来れば眠る。


 決して健全とは言えない毎日だったが、これが女の生活リズムだというのなら、規則正しい生活を送っていると言えよう。精神の病にはこういった治療が不可欠だということは知っていた。


 女はよくしゃべり、よく笑うようになった。


 最初は自分といっしょにいるから無理をして笑っているのかとも思ったが、それは違った。


 なぜなら、例の『長風呂』は相変わらず定期的にやって来るからだ。自分という存在を気にしているというのなら、いっしょにいて手首を切るということはしないだろう。


 そのたびに、『ベッドの下男』は傷口の赤で手を濡らした。時折こじるように爪を傷口にやわく立てると、女は痛みにからだをすくめた。


 罰を与えるというのなら、自分だってそうする。これが病んだ女が生きていくために必要なことだとしたら、よろこんで手を貸そう。


 そうやって女を生かそうと躍起になっている自分は、果たして何者なのだろうか?


 無論、もはや『怪異』ではない。しかし、人間でもない。だとしたら、一体何者として生きていけばいいのか?


 本来ならばアイデンティティなど持ちえない『怪異』が、自我を、感情を持ち始めた。まるで人間のように。


 しかし、結局は『モドキ』でしかない。ぎょろつく目でベッドの下を見下ろしてみても、そこには肩から先の腕と暗闇しか広がっていなかった。


 自分は女とはいっしょの生き物になれない。


 言葉を交わし合ったり、抱きしめたりはできない。


 かと言って、『怪異』としてふるまうこともできない半端物だ。


「……どうかした?」


 ベッドの下のもやもやした気配を感じ取ったのか、恒例のゲームタイムで女がベッドの下を覗き込んでくる。


「さっきから負けっぱなしじゃん。じゃがりこも全然食べてないし」


 具合悪い?と聞かれると、自分が人間になったかのような気持ちになったが、現実は非情だ。そう簡単に人間になれるはずがない。


 今日はもうやめにしよう、という意思表示でコントローラーをカーペットに置くと、女もそうした。


「なんか落ち込んでる? 元気ないみたい」


 落ちこむだとか、元気がないだとか、人間相手に言うように女は口にする。


 傷だらけの左手で、女はベッドの下から腕を引きずり出した。一次接触ができる唯一の部分だ。


 女はその手を握って、


「大丈夫だよ。君はたぶん、私なんかよりよっぽどちゃんとしてる。私が言っても説得力ないかもしれないけど、なんとかなるよ」


 自分のことで精いっぱいのはずなのに、女は必死に『ベッドの下男』を励ました。


 女は自分がなにについて悩んでいるかは知らない。だが、女なりに『ベッドの下男』のこころを心配している。


 正直に言って、うれしかった。不謹慎かもしれないが、女の気を引くことができて『ベッドの下男』はそこはかとない満足感を得ていた。


 だが、気分は晴れない。悩みは依然としてそこにあり、頑として動かなかった。


「あ、そうだ!」


 なにか思いついたらしい女がテレビのリモコンを操作して、YouTubeの動画を検索している。


「ふふふ、これ見たら絶対笑っちゃうからね!」


 どうやらお笑い動画を探しているらしい。女のお気に入りの動画投稿者のページを開くと、再生する。


 …………笑えなかった。


 どうやら、女とは笑いのツボが違うらしい。そもそも、生まれてこの方『笑う』という行為をしたことがないのだ。なにがおかしいのかさっぱりわからない。


「えー、これダメ? じゃあこれは?」


 別の動画も笑えなかった。


 その次も、その次も。


 爆笑している女のそばで、なぜそんなに笑えるのかがまったく理解できなかった。やはり自分は笑うという行為ができるようには作られていないらしい。


「おっかしーな。こんなに面白いのに」


 口を尖らせて少し不機嫌になった女は、そのまま動画を流し見することにしたようだ。検索履歴や視聴履歴からお気に入りを提案され、そのままだらだらとテレビを眺める。


 その間もずっと、『ベッドの下男』は悩んでいた。


 笑えもしない自分は、どうやって生きていけばいいのか、と。


 とうとう、あのとき女の望み通り殺してやっていればよかったかもしれない、などと考え始めてしまった。あのとき興味を持ってしまったのが運の尽きだ。


 堂々巡りの思考に陥っていると、ふとテレビから陽気なサンバのリズムが流れてきた。


 きらびやかすぎる衣装に、やたらいい声、なぜかサムライ、繰り返される雑コラ、そして、無駄にテンションの高い歌。


 『マツケンサンバⅡ』のPVが流れていた。


 ふっ、と思わず吹き出してしまう。


「……あれ? 今笑った??」


 女よりも自分自身が驚いていた。まさかこれで笑ってしまうとは。


 そして、自分が笑うという行為が可能な生き物であるとは。


 気分を良くした女が再び『マツケンサンバⅡ』のPVを流すと、声を持たない『ベッドの下男』は、喉を鳴らすようにくすくすと笑ってしまう。


「あはは! やっと笑ってくれた!」


 延々と『マツケンサンバⅡ』のPVを流しながら、女も愉快そうに笑う。


 最終的にはエンドレスループ再生でふたりで小一時間ほど笑い続けていた。


「あー、おっかし!」


 笑いすぎて目にたまった涙をぬぐいながら、女は満足げに言う。


「私も君といっしょ。こんなに笑ったのって初めてかも」


 自分といっしょ、か。


 たしかに、半端物である自分と、精神を病んでいる女は似通った点があると言えなくもない。


 共に自分のアイデンティティを模索して、悩んで、苦しんでいる半人前だ。


 そう思うと、ふっとこころが軽くなった気がした。


「楽しいから笑うんじゃない、笑うから楽しいんだ、って案外本当かもね」


 笑顔にはそんな効果があるのか。今まで笑ったことのない『ベッドの下男』には今ひとつぴんと来なかったが、笑うことによって胸の中のもやもやが薄らいだのは事実だ。


 そして、女といっしょに笑うことができた。この体験は奇跡のように『ベッドの下男』のこころに焼き付いた。


 こうして笑っていれば、もしかしたら女の言う通りなんとかなるのかもしれない。


 道が開けていく感覚があった。


「笑い疲れたからなんだか眠くなっちゃった。今夜はよく眠れそう」


 すぐ下に君もいるしね、と付け加え、女はテレビを消して布団に潜り込んでしまった。しばらくスマホをいじっている気配があったものの、ほどなくして、すうすうと寝息が聞こえるようになる。


 朝を迎える前に眠れたのは初めてのことかもしれない。


 それは薬のおかげかもしれないが、『ベッドの下男』の存在もその一因になっているのだ。


 それがたまらなくうれしくて、『ベッドの下男』はまた隠れてくすくすと笑った。


 自分が何者なのかという答えはまだ出ない。


 しかし、この女のためにこの世に顕現したのだということだけはわかった。


 それさえわかれば今は充分な気がして、『ベッドの下男』は女の下で寝息に聞き入っていた。

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