第37話 兄の恋人

 どれくらい走ったのだろう。

 ふと気づくと、空には三日月がかかり、散らしたような星々も瞬いている。

 雨は疾うに止んでいて、厚ぼったい黒い雲もすっかり姿を消していた。

 道端の草むらから、リンリンと虫の声が聴こえている。

 

 ユリアはようやく足を止めた。

 雨を吸ったローブは重く、しかも冷たい。

 銀糸の髪の先からぽたりぽたりと雫が落ちる。

 月明かりで見通せるようになったが、景色を見ても一体どこにいるのかわからなかった。

 ずいぶん遠くまできてしまったようだった。

 遠くの方に建物らしき影が見えるが、戻るの時間が掛かりそうだ。

 体中疲れ切っていた。けれど、見回しても腰を落ち着けられるような場所はない。地面はぬかるみ、ところどころ水たまりができ、草むらは月光を反射する雫を大量に身に着けている。ユリアは肩を落とし、また歩き出した。


 イルメラの登場に、その託、ライナルトの腕の温かさ、そして彼が言ったこと。

 それらに対する想いが、次々と去来し、ユリアは俯いて唇を噛んだ。

 何も考えたくはなかった。

 良いことも悪いこともひっくるめて全部。


「ユリア……ちゃん?」

 

 そのとき、前方から声がして、顔を上げた。

 そこには思ってもみない人が立っていた。

 頬の横の銀色の髪は顎のライン沿うように掛かり、首の後ろは短く切り揃えられている。

 まるで少年のような印象を与えるが、その顔は成熟した大人の女性のように妖艶で、美しい。


「カトリナ……?」

 

 そこに立っていたのは、兄アヒムの恋人であるカトリナだった。

 黒いローブを身に纏ってはいるが、フードは背中に下ろされている。


「なんで、ここに?」

 

 ユリアは立ち止まり、カトリナを見つめる。

 こんなところにカトリナがいるわけがない。カトリナは隠れ里にいるはずだ。そう思うのに、目の前にいるのは確かにカトリナだった。

 カトリナは迷いなくユリアの前まで歩いてきた。


「あら。ずぶ濡れじゃない、大丈夫なの?」

 

 ぞくりとするほどのかすれ声が、心配そうな声を上げる。


「え、あ、うん。大丈夫。……あ、でも」


 懐に手を入れると、濡れた手紙はぺったりと貼り付き、ユリが触れると、一部溶けて千切れてしまった。ばつが悪くなり、ユリアは俯いた。


「手紙が、濡れてしまった……」

 

 手紙の破片を摘まんだユリアの手に、カトリナの白い小さな手が触れた。


「気にしないで。それより、大変なことになったの」

 

 形の良い眉を寄せ、顔を曇らせるカトリナに、ユリアはきょとんとして尋ねる。


「大変なこと?」


「ええ。アヒムが捕らえられたという情報が入ったわ」


「え? え? アヒムが?」

 

 話が見えず、ユリアは疑問符の浮かぶ頭を捻る。


「〈銀海の風〉以外にも、〈翠玉姫〉を探す者たちがいるらしいの。そういった連中に捕まったらしいわ。閉じ込められている場所も聞き出した。助けに行きましょう‼ 馬車は待たせてあるわ」


 言って、カトリナは前方に目を向ける。

 カンテラの灯りがちらちら見え、かすかだが虫の声に混じり、馬の鼻息らしき物が聞こえる。

 馬車は待たせてあるという言葉に、ユリアは息を呑んだ。

 得意げな顔をしたイルメラの顔が浮かぶ。

 きっと、今頃ライナルトはカトリナと一緒に居る。

 その事実が、ユリアを打ちのめした。


「さあ、急いで」

 

 カトリナは黒い袖から露わになった細い腕を伸ばし、ユリアの手首を掴むと、信じられないくらい強い力でユリアを引きずるように馬車へと導く。


「で、でも、荷物が」

 

 宿に残した荷物のことが頭を過る。ここまで一緒に旅をしてきた大事なユリアのお供だ。貴重品も入っている。


「あなたは、アヒムの命より、荷物をとるの?」

 

 冷ややかに尋ねられ、ユリアは首を振らざるをえなかった。


(ライナルトがいるんだ。きっとどうにかしてくれる)

 

 イルメラの顔が浮かび、ユリアは顔を顰める。


「先に乗って!」

 

 馬車を引くのは二頭の白馬だった。

 御者台には黒いローブの男が座っており、客人が乗り込むのを待っている。

 ユリアは言われるがままに、濡れ鼠のまま馬車に乗り込んだ。

 あらゆるものを置き去りにしたまま、ユリアはタァナ村を去った。

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