第36話 居場所
容赦なく打ちつける雨が、体温をどんどん奪っていく。
月も星も見えない暗闇の中、冷たい雨粒だけがユリアを現実に引き留めてくれているような気がした。それがなければ、闇に紛れて、自分と外の境界すらわからなくなりそうだった。現に今だって、自分が溶け出し、境界線が曖昧になってしまっている。
「どうして、こんなことしてるんだっけ……?」
ぼやける頭で、記憶を探る。
カトリナの顔が浮かぶ。手紙を託す時の悲しげな顔に、お腹を庇うように押さえる手。
そうだ、手紙。
ユリアはずぶ濡れになったローブの下に手を入れ、まさぐって手紙を探す。
手紙も濡れてへなへなになってしまっている。
天を仰ぐと、大きな雨粒がユリアの顔をどんどん濡らしていく。
水を含んで重たくなったフードが、ずるりと背中に落ちた。
こぼれ出た銀糸の髪もすでに濡れていた。
ひどく寒気がして、体が小刻みに震えてしまう。
「ユリアちゃんっ‼」
声がして、ゆっくり振り向くと、血相を変えたライナルトが走り寄って来るところだった。
ライナルトはユリアの様子を見ると、痛ましげに顔を歪め、そのまま両腕を広げ、ユリアをその胸に押し付けるように抱き締めた。
「なんで、いきなり飛び出したりしたんだ。大雨なのはわかってたのに」
ライナルトの腕の中は温かった。不思議と安心して、瞼を閉じ、ユリアは自分の手を、ライナルトの腕に添える。
自分でもどうしてこうなってしまったのか説明できそうもなかった。
宿屋の部屋に突然現れたイルメラ――彼女が、自らをライナルトの婚約者だと名乗った瞬間、ユリアの頭は真っ白になった。そして、胸に何かが込み上げてきて、気づけば部屋を飛び出し、雨の中を歩いていたのだ。
「わからない……」
「え?」
「わからないけど、あそこにいられなかった」
「だからって、雨の中に飛び込むことなんてないのに」
ライナルトの腕に込める力が強くなり、ユリアは少し息苦しくなった。けれど、傍に居られるのが嬉しくて、されるがままになっていた。
「ユリアちゃん、あの子は、イルメラはっ」
ライナルトが言い掛けたとき、人の気配がしてふたりはその方角に素早く視線を走らせた。
ギュンターのさす傘の下、イルメラが立っていた。
イルメラは不敵な笑みを浮かべ、ライナルトの腕に抱かれたユリアを見つめている。
美しいイルメラに対して、みすぼらしい濡れ鼠になってしまったユリアはいたたまれず、目を伏せる。
「ライナルト、ヨナタンおじさまから託(ことづけ)を預かっているの。『早く家に戻りなさい。イルメラとの婚約も正式に戻そう』って。さあ、馬車を待たせてあるの。行きましょう?」
一拍置いて、ライナルトは首を振る。
「君との婚約はとっくの昔に解消したはずだ。それに、俺は戻るつもりはない」
そして、射抜くようにイルメラを見つめ、腕の中のユリアを更に引き寄せる。
「俺の居場所はあそこじゃない。ここだ」
ユリアははっとして、ライナルトを仰ぐ。
ライナルトは優しい顔でユリアを見下ろす。
灰緑色の瞳に甘やかな色が浮かぶ。
「俺の居場所は、ここだ。そう決めた」
ユリアは目を見開き、ライナルトの真意を汲み取ろうと、食い入るようにライナルトを見つめる。
「確かに、十年前に一度、破棄されたわね。けれど、私は待つと申し上げたわ。いつまでも待つと。そうして、やっとその我慢が報われる。ねえ、ビアンカおばさまの病状をご存じかしら?」
とたん、ライナルトの体が強張った。
「そのことも含め、ちゃんとお話ししましょう? さあ、いらして」
口調は一見穏やかなのだが、その奥には絶対折れないという確固たる意志が見え隠れしている。
ライナルトの腕が弛んだ。
彼の顔に動揺が見て取れる。
(ビアンカおばさまの病状……?)
ライナルトは明らかにこの言葉に反応した。
(きっと、母様のことなんだ)
ユリアはライナルトの鳩尾あたりに手を置いて、ぐいっと押した。
ライナルトは驚いたようにユリアを見下ろす。
けれど、先程までのユリアだけを見ている表情ではなかった。
心ここに在らずで、何かに囚われた人の瞳だ。 雨はいつの間に小降りになっており、もう少しで止む気配がしていた。
ユリアが思い切りライナルトを押すと、ライナルトは数歩よろけて、困ったようにユリアを見つめる。
「ユリアちゃん……?」
「行って」
「え?」
「行って‼ ちゃんと話を聞いてきて‼ じゃないと……」
目の端に、微笑むイルメラが映り、ユリアは言葉をぐっと飲み込んだ。そして、くるりと背を向け、暗闇の中、走り出した。
「ユリアちゃん……!」
追いかけようと踏み出したライナルトの耳に、イルメラの切迫した声が届く。
「お母様の病状は一刻を争うわ。さあ、早く来て」
踏み出しかけた足が止まり、ライナルトは苛立たし気な顔をイルメラに向けた。
「何だって言うんだっ……‼」
ライナルトは吐き捨てるように言って、闇に紛れて消えようとしているユリアを切ない瞳で見送っていた。
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