第22話 新婚家庭と誘拐②
「今夜は是非泊まって行ってくれ」とペーターが言うと、新婚家庭には宿泊したくないと固辞していたライナルトだったが、アンネからの強い引き留めを受け、しぶしぶ受け入れることにしたらしい。
パン屋を営むランケ夫妻の、美味しい手作りパンとパンに合わせて作られた温かいスープ、それに季節の果物が並べられた食卓を囲み、楽しい夕餉は幕を閉じた。
二階の客間はユリア、居間に組み立てた簡易寝台がライナルトにあてがわれ、ランケ夫妻は明日の仕込みがあると店に出てしまった。
清潔に整えられた寝台に潜り込み、ユリアは天井を見上げた。
燭台は消してあるが、四角い窓から月明かりが入り込む。
「あ、カーテン閉めてなかった」
ユリアは体を起こし、
今夜は雲が多いようで、瞬く間に三日月が雲で覆い隠されてしまった。
とたんに、真っ暗になって、急に心細くなる。
ユリアは身震いし、カーテンを閉めようとした。
が、なぜか胸騒ぎがして、硝子越しに通りを見下ろした。
「ん……?」
店の前に、黒い影のようなものが見える。
よく見ようと目を凝らすと、その影がさっと掻き消えた。
ユリアは目を擦り、もう一度よく見てみる。
だが、月明かりもない暗闇の中では、全てがおぼろげで、判然としない。
そのとき、どこからかがしゃんという大きな音が響いた。
「!」
何かが落ちたような派手な音だ。
ユリアは目を見張り、耳をそばだてる。
他にも何か物音がしているのがわかる。がらがらがら、がっしゃんと、けたたましい音が続いている。
どうやら、足の下から聞こえてくるようだった。
ユリアのいる客間の下はパン屋になっている。
一瞬躊躇したものの、ユリアは意を決して、戸を開け、階段を素早く駆け下りた。
居間に下りると、卓の中央に炎の揺らめく燭台が置いてあり、難なく歩くことができた。
卓横に設えられた簡易寝台には、ライナルトの姿はない。
視線を動かすと、廊下の先の店に続く扉が開け放たれ、そこから灯りが漏れているのが見えた。
ユリアは忍び足で廊下を通り、店の扉へと近づいた。
そこには、橙色の灯りに照らされた二人の人影があった。
ひとつは、床に伏した影。
もうひとつは、伏した影の傍らで屈みこみ、労わるように寄り沿った影。
「ライナルト……?」
ユリアが声を掛けると、屈みこんでいたライナルトが振り返った。
表情は酷く険しく、焦りの色が見える。
ユリアは息を呑んだ。尋常ならざる事態が起きたに違いない。
「何があったの……?」
地面に倒れているのはペーターのようだ。
彼らの周囲、それだけでなく、店内の床一面に、籠や鍋が散乱しており、まるで嵐が吹き荒れたような惨憺たる有様だった。
「ねぇ、アンネさんは……?」
アンネの姿が見えない。
もう寝室だろうか、そうだったら良いと思ったその時、呻くような声が聞こえた。
「ペーター! しっかりしろ! 何があった⁉」
ライナルトは頭を下げ、苦し気に呼吸を繰り返すペーターの顔を覗き込む。
ペーターは重そうな瞼を半分上げ、ライナルトに虚ろな目を向けた。
彼の頬に血の滴る切り傷があるのを見つけると、ユリアは小さな悲鳴を上げ、体を強張らせた。
「アンネが……連れていかれた……黒い、黒い奴らに……」
「黒い奴ら?」
ライナルトの表情が曇る。
「ユリアを……連れて来いって。交換だと言いやがった……フェリア城に来いって」
時折咳き込みながら、ペーターは続ける。
「……東の方に大きな森がある。そこに古城があるんだ……大昔、なんとかって伯爵が建てた小さな城だ。今は廃墟同然の」
ペーターはどうにか身を起こし、片膝をついて立ち上がろうとするも、よろけてまた膝をつく。ふらつくペーターを献身的に傍らから支えていたライナルトは、灰緑色の瞳に強い光を湛え、開け放たれたままの扉に目を向けた。
暗闇から夜風が入り込み、扉の上部に付いたベルを撫で、かすかに音を鳴らす。
「わかった。俺が行って、アンネさんを連れ戻してくるよ」
「俺が行く。アンネは俺の……」
「でも、そんな体じゃ無理だ。俺に任せてよ」
ライナルトはペーターの背中をぽんぽんと叩いてから立ち上がり、ユリアの目の前まで歩いてきて、軽く膝を曲げて視線を合わせる。まるで母親が幼子にするように。
「今からちょっと外に出てくるよ。鍵を閉めて、どこかに隠れてて? あと、ペーターをよろしく」
ユリアの頭に大きな手を乗せ、軽く撫でると、背筋を伸ばし、ユリアの横を通り過ぎていく。ユリアが口を開こうと、振り返ると、既に居間へと続く扉の奥へと消えていた。
(一人で行く気だっ!)
ペーターの話から考えれば、アンネを攫った人間は、ユリアの追手である〈銀海の風〉に違いない。黒い奴らというのは、黒いローブを着ていたからだろうし、ユリアと交換だと言っているのだから、明らかにユリアが目的なのだ。
(アンネさんを巻き込んじゃったんだ……)
ユリアはきゅっと唇を噛み、拳を握りしめる。
ライナルトがローブを着こみ、十文字槍を片手に戻って来た。
そして、ユリアの横を何も言わずに通り過ぎようとするので、ユリアは握っていた拳をぱっと開き、ライナルトの腕を掴む。
ライナルトは驚いたように立ち止まり、振り返った。
「ユリアちゃん……?」
ユリアは足に力をぐっと入れ、もう片方の手もライナルトの腕にを掴むと、両手で自分の方に手繰り寄せるように引っ張る。
が、ライナルトの方が圧倒的に大きく、重いので、ユリアがいくら引っ張ったところで、ふらつくことさえない。
「ユリアちゃん……えっと、放してもらえるかな? 俺、今から……」
不意を突かれたような顔をして、ライナルトは眉を下げた。
ユリアは顔を上げ、キッとライナルトを睨むように見つめた。
「私も行く!」
ライナルトは目を瞬かせたが、すぐに窘めるように首を振る。
「危険だ。彼らの目的は、君なんだよ?」
「じゃあ、猶更行かなきゃならないじゃない!」
ユリアは壁に寄りかかりしゃがみ込むペーターに視線を走らせてから、荒らされた店内を見、わずかに目を細めてから、ライナルトに顔を戻す。
「アンネさんは巻き込まれたの。ペーターさんも。全ての元凶は私。その私が、ここで待ってるなんておかしい。それに、アンネさんは私が行かなきゃ、返してもらえないんでしょ? ライナルトがひとりで行ったところで、追い返されるだけ!」
「彼らの言う条件を、素直に飲む必要はない。俺が絶対、助け出してくるから、君は……」
「嫌‼ 大人しく待ってるなんて‼ それに、私が行くのは理にかなってるの。だって、実は人質交換は目くらましで、ライナルトがお城へ行っている間に、私がここにいると踏んだ彼らが、襲撃に来る可能性だってあるじゃない。そうなると、私はあなたといるべきだと思う。行動を共にすべきだよ」
強い口調でそう言うと、ライナルトは言葉を失い、固まったように動かなくなった。
視線を一点に固定して、思考を巡らせているようだった。
「ライナルト、私、絶対行くからね」
畳みかけるように言うと、ライナルトはふうと肩の力を抜いてから、ユリアに困ったような顔を向ける。
「確かに、一理ある。よし、じゃあ、ユリアちゃん、着替えてきて?」
ライナルトが二階を指し示すように視線を天井に投げる。
「え?」
「君は寝間着だ」
ユリアはライナルトの腕を掴んでいる腕を見下ろし、「あ」と声を漏らす。
寝支度を整えた後だったのだ。
ぱっとライナルトの腕を放し、飛びのくようにユリアはそそくさと居間に続く扉へと急ぐ。
「……こりゃあ、尻に敷かれるな」
後方で、ペーターの呻くような独り言が漏れたが、ユリアは聞かなかったことにして、二階の階段を駆け上った。
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