第6話 狙われる理由①


 その日の夜。

 灯りを消した室内で、ユリアは寝台に潜り込み、天井を見つめていた。

 ほんの少し仮眠をとっただけなのに、不思議と目が冴えていた。

 体は重いし、あれこれ考える気力はないのに、なぜだか目を瞑っていられない。


 カーテンの隙間からささやかな月明かりが差し込み、部屋はほのかに明るい。

 慣れない布団の中とはいえ、お腹も満たされ、疲労困憊なのに、どうして眠れないのだろう。

 枕を変えると眠れないというような繊細な性格ではない。

 どちらかといえば、どこでもすぐ寝入ってしまう方なのに。


 でも、思い当たる節がある。

 いつものお祈りをしていないのだ。

 白く簡易な祭壇の前、家族揃って膝をつき、手を合わせて一身に祈る。

 毎日、朝晩と繰り返される面倒な儀式。

 最前列の中央に父が、母と、ユリアを含めた兄姉三人は、二列目に横並びになって、聖典手に祈るのだ。

 習慣と化している祈りを、今夜はしていない。


 髪を梳かすように、歯を磨くように、毎日行っていた習慣だからだろうか、していないというだけで胸がそわそわして落ち着かない。

 

 けれど——ユリアは両親の信じる神様を捨てた。

 もうあの紛い物の神に祈る必要などない。


「ここには、お祈りを強要する人はいないんだから」


 ユリアはお腹の上に置いていた手を、胸の前に移動させ、堅く握りしめる。

 手元に聖典はない。だが、なくとも諳んじることができる。それほど、ユリアの身には聖典の文句が染みついていた。


「もう解放されたんだから」


 自分にそう言い聞かせて、ユリアは息を吐き、いつの間にか全身に入っていた力を抜いた。

 そのときだ。

 窓の方で、かりかりと何かを引っ掻くような音がして、ユリアの心臓は跳ね上がった。

 身を強張らせ、ゆっくり音のした方へと顔を向ける。

 

 かりかりかり。


 今も、音は続いている。

 その不気味な音色に、ユリアは心臓が掴まれるような恐怖を覚え、震える足で掛け布団を蹴り飛ばすように剥ぐと、裸足のまま縋るように扉に駆け寄った。

 

 暗がりの中、いつでも開けられるようにと閂に手を掛け、こわごわと窓の方へと振り返る。

 いつの間にか音は止んでいる。

 けれど、何となく不穏な気配を感じる。

 ユリアは息を潜めて、目を凝らし、じっと窓に視線を注ぐ。


 刹那、カーテンの隙間から差し込んでいたわずかな光が、何かの影に遮られるようにして消えた。

 目を見開いた瞬間、突如、ガタンという大きな音がしたかと思うと、今まで隙間風により微かに揺れていたカーテンが、一気に外界へと引き込まれた。


「⁉」

 

 何が起こったのかわからなかった。

 だが、カーテンが外界へと吸い込まれるような動きを見せたということは、窓が開け放たれたということだ。その証拠に、先程まではなかったひんやりした夜風が頬を撫でていく。

 ユリアは声すらまともに上げられぬまま、開け放たれた窓を、息をつめて凝視する。


(何かいる……‼)

 

 月光を背にした人影が、窓枠に手を掛け、ひょいっと室内に下り立った。

その人物の視線は、扉に張り付いて、恐怖に震えるユリアに向けられた。


「ユリア・クレフ・シュバルヒ。迎えに来た。さあ、共に行こう」

 

 昼間に村の手前で聞いたローブの男の声だった。

 男は怯えるユリアを見ると、わずかに躊躇う素振りを見せ、何を思ったかおもむろにフードを脱いだ。

 零れ出たのは、月明かりで輝く銀色の髪。

 長めの前髪は右側に流され、右目の半分を覆い隠している。切れ長の目は涼しげで、その瞳の色は空色だ。アヒムと同年齢くらいの青年だった。


(やっぱり、同族! それに、この人……見覚えがある?)

 

 その容貌にはどこか見覚えがあった。

 急いで記憶を探ると、兄アヒムの姿が思い出された。

 兄が里の外れで数人の青年たちを語らっている姿だ。

 その中に、確かこの青年の顔があった。


「何も怖がることはない。君は選ばれし者。あのお方が君の力を必要としている。とても名誉なことなんだ」

 

 どこか陶酔したような声音だ。

 ユリアは悪寒を感じ、思わず、両腕で自身を掻き抱いた。

 現状がさっぱり呑み込めない。

 なぜ、兄の友人と思しき青年が、自分をつけ狙うのか。


 しかも、選ばれし者とか、あのお方が必要としているとは一体、何の話なのか。

 全く意味が分からないものの、直感的に、好ましい話ではないと感じる。

 青年が一歩踏み出したので、ユリアは急いで両手を背中に回し、扉の閂に手を掛ける。


 だが、焦りのせいか、上手く外すことができない。

 青年はまた一歩踏み出した。

 頭の中で、警報の鐘が鳴り響くような気がした。


(開いて、お願い!)


 祈るように手を動かすも、途中で引っかかってしまったかのように、閂が動いてくれない。

 泣きそうになるユリアの元に、渋れを切らした青年がつかつかと歩み寄って来た。

 ユリアは素早く青年に背中を向け、叫び出したくなる衝動を抑えながら、閂を正面から外しに掛かる。途中で引っかかっていた木の棒がすんなり取れる。

 ようやく外に出られると一縷の希望が見えたとき、ユリアの肩を青年の手が強く掴んで、引き留めた。 

 その冷たい感触に、痺れたように身体が硬直する。


 と、その時だ。


「‼」

 

目の前の扉がぎぃと開き、扉に手を付いていたユリアはそのまま体勢を崩し、つんのめるように廊下に倒れ込む。

肩を掴んでいた青年も、まさか握りを回していない扉が開くとは思っていなかったのか、驚いて、掴んでいた手を緩めていた。

まるで時が止まったかのように、ゆっくりと、「あ! 転ぶ!」と顔面を打ちつけることを覚悟して堅く目を瞑ったとき、倒れるユリアの体をふわりと支えた者があった。


「おっと、危なかった」

 

 耳元で声がして、ユリアははっとして顔を上げた。

 ライナルトが厳しい表情で、ユリアの部屋の中を睨みつけている。


「物音がしてから来てみればこれか。しっかり掴まってて」

 

 支えていた腕で、そのままユリアを抱き込む。

 反対の手に握っていた十文字槍を横にして、銀髪の青年を牽制するかのように、槍をぐっと突き出した。

 

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