第5話 旅は道連れ③
「ふう……」
半ば倒れ込むように寝台にうつ伏せになり、ユリアは右頬を布団に押し付けながら、窓から差し込む光で満たされた室内を見やった。
一人用の小さな部屋には、簡素だが寝心地の良い寝台と、こじんまりした木製の丸卓に一脚の椅子が置かれている。壁際に腰くらいの高さを持つ棚が置かれ、その上に一輪の白い花の刺さった花瓶が飾ってあり、わずかに部屋を彩っていた。
一通り室内に目を巡らすと、外から村の賑わいが聞こえ、何の気なしに耳を傾けているうちに、意識がすーっと遠のきそうになる。はっとして目をこじあけようとするが、すぐに瞼が重くなり、思考を進めようとするのに、意識が表面を撫でるだけで、すぐに靄がかかったように不鮮明になり、何度も同じ言葉や気持ちが繰り返される。
ふいに、今取り立てて考えるべき事項はないという考えが頭を過り、一気に安堵の思いが心を満たす。それを皮切りに、ユリアは睡魔に抗うことを止め、じわじわと両腕を広げ抱き込もうとするそれに、大人しく身を委ねたのだった。
それからしばらくして、ユリアはゆっくり目を開けた。
ぼんやりする頭で、目に映る景色をただ眺める。
薄暗く、それでいて強烈なほどの橙色の一筋の光が、部屋を染め上げている。
「あれ……夕方?」
ついうっかり昼寝でもしてしまったのだろうか。
夕飯の支度を手伝わなくてはならないのに。
ぼやけた頭で、早く起きないと、母様が不機嫌そうに呼びに来るに違いないと考え、ユリアはむくりと上半身を起こして、まだ重い瞼をぐりぐりと指の背で擦る。
改めて目を開け、室内に目を巡らすと、ユリアは首を傾げた。
「ここ……どこ?」
見慣れた自室ではないことに気づき、とたんに目が覚める。
頬に掛かった銀色の髪を掻きあげ、ユリアは宙に目を止めると、記憶を整理する。
「母様たちと言い合って、師匠のところに行こうとして……そうしたら、カトリナに会って。兄様への手紙を託されて、それで……変な奴らに襲われて、そして……」
そのとき、トントンと扉を控えめに叩く音がして、ユリアは視線を扉に投げる。
「ユリアちゃん、そろそろ夕食だよ。食堂へ行こう」
声を掛けられ、どきりとする。
ユリアは背中に垂れていたフードをさっと被って、髪を隠すと、足を下ろして、扉まで歩く。
閂に手をかけるも、その手を止め、
「ごめんなさい。あまりに疲れたせいで食欲がなくって。私のことはいいから、あなただけ食事へどうぞ」
ユリアは扉を隔てて向こう側に立つ、ライナルトに向けてそう言い放つ。
言葉を受けて、やや躊躇うような息遣いが聞こえたが、
「そっか……わかったよ。行って来る」
残念そうに言って、彼の気配が遠ざかるのを感じた。
「はぁ……」
深いため息をついて、くるりと扉に背を向けると、唯一置かれたた木製の椅子にどかっと腰を下ろす。
「そうだ、あの人……お節介、保護者面男に付きまとわれてるんだった」
ずいぶんな言い様でそう吐き出すと、ユリアは眉根を寄せた。
本当は食欲がないというのは嘘だ。
ユリアはきゅうと恨めしそうに鳴るお腹に手を当てる。
すぐにでも食堂へ行って、温かい食事にありつきたい。
宿の食堂でどんな食事が振る舞われるのか、考えただけで涎が口に溜まる。
けれど、フードで頭を覆ったまま、席についている姿を想像すると、気が重くなるのだ。
——食事中はフードを取ろうね?
と言い放ったライナルトが一緒なのだ。
外であれば何とか誤魔化せたが、屋根の下、室内の食堂でフードを被っていたら、確実に咎められるだろう。それに、常識で考えて、頭を覆ったまま食事をするのは、料理人に失礼だ。周囲の目も気になる。極力人目に付きたくないのに、否が応でも注目を浴びてしまうだろう。
「仕方ないよね」
室内が起きたときよりも暗くなってきた。日が完全に沈もうとしているのだ。
ユリアは卓の上に燭台を見つけ、蝋燭に火を灯す。
それから、立ち上がると窓辺に寄り、カーテンを引いた。
別段やることも思いつかず、ユリアは寝台縁に腰を下ろし、丸みを帯びた半月型の櫛を鞄から取り出し、銀色の髪を梳いていた。蝋燭の心許ない灯りに照らされ、銀糸の髪がきらりと輝いた。空腹をどうにか意識の外に追い出そうとするも、時折部屋に響くほどの音で、主張するお腹の音に、ユリアは唇を噛んだ。
そのとき、廊下から足音が聞こえ、ユリアは耳を澄ます。
足音は徐々に近づいてきて、最高潮に大きくなったところでぴたりと止まった。
またも控えめなノックの音がして、ユリアは身構える。
「ユリアちゃん、開けてくれる? いいもの持ってきたよー」
ライナルトの声だ。
ユリアはライナルトの持って回った言い方に、あからさまに顔を顰め、
「いいものって?」
腰を浮かすこともなく、怒鳴るように返す。
「軽食」
その言葉にユリアの耳がピクリと動いた。
「さすがに何かお腹に入れておいた方がいいよ。宿の人には許可取ったし、部屋で食べるといい。スープもあるし。まだ湯気たってるよ」
スープと聞くと、香ばしい香りが扉の隙間から入り込んでくるような気がした。
ユリアは渋々という体で立ち上がり、閂を開ける。
けれど、内心は歓喜していた。
扉を押し開けると、廊下の壁に備え付けられた燭台の炎を背にしたライナルトが、ぬっと立ち塞がっていた。その威圧感に、思わず息を呑んだ。
ライナルトは、すっと真四角の盆を差し出してきた。
ユリアが視線をライナルトの顔辺りに移動させると、彼の口の両端がくっと上がり、目は優し気に細められた。もとから垂れ目がちであるライナルトの目は、笑うとさらに垂れる。
背も高く、その背に合わせて横幅もそれなりなので、一見強面にも見えてしまうが、その実、稀に見る柔和な雰囲気を持った、いかにも親切そうな善人という趣である。
子供の頃に聞いた、醜く恐ろしい風貌だが、内面は誰よりも心優しい巨人のおとぎ話を髣髴とさせる。
だが、大男と決定的に違うのは、その顔つきだろう。
(気づかなかった……この人って)
顔を合わせたくなくて、極力視線を避けていた。なるべくフードを目深に被り、俯き加減で歩いていたし、彼の隣に並ばないように早足で歩いた。
だから気づかなかったのだが。
(かっこいいんじゃない……? 顔が)
薄暗いせいかもしれないし、目の錯覚かもしれない。
空腹時に食事を運んできたというその行為が、ユリアを惑わせているだけかもしれない。
そう心の片隅で思いながらも、ユリアはライナルトの顔から目を離せなかった。
肌は焼けておらず、やや色白。
灰緑色の瞳はくっきりした二重で、垂れた目尻がわずかに色気を感じさせる。
鼻筋もすっきり通っていて、造詣が美しい。
髪が短いので、顔の輪郭が露わになっていて、整った顔立ちを際立たせる。
「俺の顔に何かついてる?」
不思議そうに首をひねり、微苦笑を浮かべるライナルトを見つめていたユリアは、今まで自分が穴のあくほど見つめていたことに気がつき、さっと顔を背けた。かーっと血がのぼり、顔がほてるのがわかる。
「べ、別に! 何か意味があって見てたんじゃっ……」
ライナルトはユリアの顔を、一瞬見つめたあと、盆に載った湯気の立つスープに目を落とす。
「疲れてるのかな? じゃあ、俺が運びましょうかね。さあ、回れ右」
空いた手でユリアの肩を叩き、部屋に入るよう促す。
ユリアは言われるがまま、ライナルトに背を向けると歩き出し、卓の前で立ち止まる。
燭台を脇に押しのけ、ライナルトは盆を卓に置いた。
それから、椅子の位置を整え、ユリアに座るよう目で合図した。
燭台の炎で照らし出される食事に、ユリアは唾を飲みこんで、椅子に腰を下ろす。
盆に乗せられていたのは、木製のコップを満たした赤紫色の果実の絞り汁に、丸いパンがひとつ。それに湯気の立つ香気を漂わせた琥珀色をしたスープに、焦げ目のついたベーコン二切れと青菜の炒め物。
簡易と言っていたので、スープとパンだけかと想像していたが、思った以上にちゃんとした食事で呆然としてしまう。
食事に目を落としたまま、匙も握ろうともしないユリアに、ライナルトは体を屈ませ、顔を覗き込む。
「せっかく温かいんだから、早く食べなね」
近くから声がして、ユリアははっとして顔を上げた。
思いの外近くに綺麗な顔があり、ユリアは仰け反り気味に背筋を伸ばし、曖昧に頷いた。
「じゃあ、寝台借りるね」
言って、ライナルトはすたすたと寝台に歩み寄ると、どかっと寝台の縁に腰を落ち着けた。
それから、行儀よく足を揃え、折り目正しくユリアを見つめている。
(食事を運び終えたのに、何でいるの⁉)
非難したい気持ちを抑え、ユリアはライナルトの視線を感じながらも、それを意識の外に追いやる努力をしつつ、両手を組み合わせ、目を堅く瞑る。
いつものように食事前のお祈りを口にしようとして、はっと思い留まった。
(あっぶない。人前で口走るところだった)
目を開け、ちらりとライナルトを見やる。
ライナルトはユリアを目が合うと、その瞳で問うようにしながら、わずかに首を傾ける。
何でもないというようにユリアは首を振り、顔を取り繕って、再び目を瞑る。
(ええい! お祈なんてしなくていい! もう食べちゃうんだから‼)
祈ったくらいの間を取ってから、ユリアはぱっと瞼を上げ、組んでいた手を解く。
「いっただきまーす!」
ぎこちない挨拶を口にした後、ユリアは匙を握り、温かなスープを一匙掬うと、口に運んだ。塩加減のちょうどいい豆類の味が染み出たスープだ。ほっとするような味で、喉を通り、お腹まで温かさで満たされる。
「おいしいっ」
もう一匙と思い、スープ皿に匙を落とし、かき混ぜると、ひょっこりとキノコが浮かんできた。それを捕らえて、口に運ぶ。弾力のある歯ごたえが何とも良い。
思わず笑みがこぼれ、ユリアは食事を進めていく。
ふいに声がした気がして顔を上げると、ライナルトが面白そうにユリアを見ていた。
ユリアの手が止まる。
「何ですか」
笑われているような気がして、ユリアは表情を曇らせた。
食事を見られているのだって気分が悪いのに、その上笑うなんてひどい。
繊細な乙女の食事を何だと思っているのだ。
「ごめん。あまりにおいしそうに食べるから。可愛いなと……」
可愛い⁉
ユリアは目を剥いて、ライナルトを見つめた。
不服だ。非常に不服だ。子ども扱いが過ぎる。
そう思う一方で、男性に「可愛い」などと言われ、ユリアは気が動転して、持っていた匙を取り落としそうになった。
「か、可愛くなんてありません! 可愛くなんて‼ ライナルトさん、目がおかしんじゃないですか⁉」
内心の動揺を悟られぬよう、俯きながら捲し立ててしまうが、余計に空回る。
また笑われる!
そう思ったのに、笑い声は一向に聞こえてこない。
ユリアは顔を上げて、ライナルトを見た。
「よかった。名前、覚えててくれたんだね。てっきり、覚えられてないのかと」
嬉しそうに微笑むライナルトに、ユリアは思わず目を伏せた。
言われれば、確かにライナルトの名を呼ぶのは今が初めてだった。
勝手についてきて、勝手に保護者面した男だ。
名前を呼んでしまえば、認めたことになる気がして、口には出さなかった。
けれど、可愛いと言われて動揺し、つい名を口にしてしまった。
案の定、ライナルトは認められたとばかりににこにこしている。
してやられたと、顔を覆いたくなる。
ちらりとライナルトを見れば、灰緑色の瞳に優しい色を浮かべている。
その視線になぜかどきりとして、ユリアはいそいそと食事に戻った。
前途多難な旅の始まりに、ユリアは大きなため息をついた。
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