残光

 皇帝のウドとなって十五年。

 私というウドを手に入れた皇帝陛下は、腹心である弟のバークレイ殿下とともに私を表舞台での代行者として自在に扱い、その光輝ラートイという名に相応しい輝ける才覚を自身の居室に坐したまま発揮した。その治世は多くの政敵を深謀遠慮の政略で排除し、数多の政治課題を果敢な改革で打開し、様々な外敵を神算鬼謀の戦略で撃退し続ける十五年となった。


『ウド』


 陛下は病弱な身ながらよく笑う御方で、自室で二人きりになるとこう気安く私に話しかけられ、


『楽しいな』


 と、陛下の謀略で反乱に追い込まれて敗死した政敵の献上された生首を見て、まるで虫を潰して喜ぶ子供のような無邪気さで笑うのだった。

 生真面目なバークレイ殿下はそうした態度に度々苦言を呈されたが、私には陛下のそうした御姿が真に偉大なる神マラバシュに愛され、またそれを確信している神の代理人バシオスの立ち居振る舞いに感じられ、その御姿がどれほど自分と似ていても、決して同じ人間にはなれない唯一絶対の存在として深い畏敬を抱いたのだった。


 ――しかし、その陛下が身罷られた。


「陛下、敵が突撃してきます!」


 近衛兵の声に意識を戦場に戻した私は、輿の上で立ち上がり前線の動きに目を遣った。すると、こちらの陣列の薄くなった部分を突いて、赤い軍旗に率いられた騎馬の群れが「ハイラーン!」のときの声とともに濛々たる赤土の煙を巻き上げながら、こちらへと真っ直ぐに突き進んで来る様子が見えた。


「防げ、防げ!」


 この突撃に気付いた後衛の部隊が急いで陣列の隙間を埋めるように集まるが、槍方陣テッサルトを新たに組むだけの時間もなく、一塊の鉄槌の如き勢いで突撃するこの人馬の一団の衝撃力を前に、ひび割れた煉瓦のような脆さで一撃に砕かれてしまった。

 汗が流れる。

 一団を率いる旗は真紅。

 それはこちら――私の元に真っ直ぐに向かって来ている相手が、蛮族ブーダバスの王カマルムクであることを示していた。

 冷たい緊張の汗。

 心臓が、迫り来る馬蹄の響きに急かされるように早鐘の鼓動を刻む。

 私は皇帝ではない。

 本来ならば私は、このような帝国の命運を賭けた決戦の舞台で、敵の王と対峙し得る人間では決してないのだ。

 親の名も知らぬ孤児の生まれ。

 陛下というトイを得て、初めてウドという役目に人生の意味を得た、ただの人間。

 そう、私はただの人間なのだ。


『ウド、お前が皇帝だ』


 だから、バークレイ殿下が陛下の遺言を聞いた直後に仰られた言葉は、私を深く恐懼きょうくさせた。


『ここで皇帝の崩御が知られれば軍が動揺し、ここまで築き上げた兄上の作戦が水泡に帰す』


 殿下の仰る理由は理解できた。けれど私にはそれは無理だと感じられた。


偉大なる神マラバシュの目は偽物を見抜きましょう』


 神聖なる血統バシオスは神に選ばれた存在だった。あの御方は、代々に地上における神の代理人としてこの神に愛されしバシュタイル帝国に君臨する血統の末裔にして、皇族の人間が生まれた時に受ける神命の儀式によって偉大なる神マラバシュより光輝ラートイという神聖なる名前を与えられた、紫紺の衣に包まれて生まれし王の中の王――皇帝バシオスであるのだった。ただ陛下の御姿に似ているだけのウドである自分に、神を欺けるとは到底思えなかった。


『皇帝ならざる身で皇帝として戦えば、それが敗因となります』


 神に偽物であることを見抜かれ、あの御方がここまで成し上げたものを壊してしまう。それを私はひどく恐れた。

 なによりあの傲岸不遜で大胆不敵な、自身が神に愛された存在であることを寸毫も疑わない、生来の絶対的な君主として光輝ラートイたり続けた陛下を失って、ウドである自分が皇帝を演じ続けられるなどまったく考えられなかった。


「陛下を御守りしろ!」

「集まれ! 防げ!」

「輿をお下げしろ!」


 近衛兵が慌ただしく動く。迫る蛮族ブーダバスの鉄騎の勢いは落ちることなく、この劣勢に動揺の気配が周囲に広がっていくのを感じた。

 これが陛下であれば、巧みな指揮で陣列に穴を空けるような用兵は行わず、このように敵に肉迫させる隙など与えなかっただろう。

 しかし私は凡人だ。

 やはり神は――その思考の間隙に、衝撃が身体を走った。


「陛下!」


 近衛兵の悲鳴。

 身体が傾ぐ。

 肩に矢が突き立っている。

 射られた。

 迫る敵。

 自分を射たと思しき、屈強な戦士が敵団の先頭を駆けてくる。

 豪奢な赤染の帽子と外衣を纏い、立派な編み髭をした男。

 この男が、二の矢をつがえようと矢筒に手を動かしている。

 死を感じた。

 ウドトイとともに生きて死ぬ。あの日、陛下自身が仰られた通りに、それが私の中での絶対的な真理であった。

 陛下は亡くなられた。

 ならば私も死ぬのだろう。

 それが自然の摂理のように思えた。

 けれど――、


『ならば』


 バークレイ殿下はあのとき、出会ってから十五年来変わらない、その謹厳な顔で怯える私に迫り、


『神をも騙せばいい』


 と、神をも恐れぬ言葉を言い放った。


『兄上は――陛下は『勝て』と言ったのだろう?』


 さらに殿下は一歩迫り、


『つまり、『神を騙せ』と言ったのだ』


 両肩をがっしりと掴んで私の目を炯々けいけいと光る両のまなこで見据え、陛下のように――皇帝のように強く輝く言葉で私に御命じになられたのだ。


『嘘は暴かれるまで真実だ。神ですら暴けぬ嘘ならば、それはもはや本物だ。本物の皇帝となれ――ウド!』


 傾いだ身体が踏み止まる。


「神を騙す――」


 口にした言葉の重みに潰されそうになる。しかし、陛下は『勝て』と言った。それは陛下が自身の策が成り、勝利を確信していたからだ。陛下の死がそれを失わせるならば、私は陛下として生き、必ず陛下の手に勝利を掴ませなければならない。

 あの日、陛下は言った。


光輝ラートイウドとして生きて死ね!』


 この言葉は、まだ残光のように私の中で輝いている。

 陛下の残した光が、まだ私を影として生かしてくれている。

 ならば生きねばならない。

 生き尽きるまで生きねばならない。

 偽物である私は、本物の残した光が尽きるまで、影として生き抜かなければならないのだ。

 だから――、


 神よ――私に騙されろ。


私はここにあるラートイ・アーレ!」


 足を踏み締めて身体を支え、戦場の喧騒も、劣勢の動揺も、私を怯えさせる惰弱な心も、すべてを吹き飛ばすように腹の底から叫んだ。

 私の発した大声に周囲の近衛兵たちが振り向く。

 彼らはうなずくと、先までの動揺を払ったように一斉に声を上げた。


光ありラートイ・アーレ!」


 そして抜剣した近衛騎兵を先駆けに、彼らは口々に「光ありラートイ・アーレ!」と叫びながら、迫る蛮族ブーダバスの鉄騎の群れへとぶつかっていった。


光ありラートイ・アーレ!」


 近衛騎兵の突撃は蛮族ブーダバスの鉄騎に打ち負けたが、その勢いを僅かに削いだ。この犠牲が稼いだ時間に兵が集まり、私を――皇帝を守る壁として敵の前に立ちはだかった。


光ありラートイ・アーレ!」


 彼らもまた口々にそう叫びながら、矢を射掛け、槍を突き出し、剣を振るい、さらに続々と集まって突出してきた蛮族ブーダバスの軍勢を取り囲み、私を乗せた輿が後ろに下がり出すだけの余裕を作った。


神に愛されし我らに光ありバシュタイル・ラートイ・アーレ!」


 いつしか味方の上げる喊声かんせいはこの言葉で埋め尽くされ、倒されても倒されても前に進み続ける彼らは、後退する私の輿へ「ライ、ライ、ライ!」と叫びながら追い縋る敵の突撃の勢いを確実に削ぎ殺していった。


「――皇帝バシオス!」


 そこで私を引き留める、天空を貫く矢のように鋭い声が飛んだ。

 先に私を射た、赤染の衣装を纏う編み髭の蛮族ブーダバスの男。

 男が私に狙いを付けて矢を引き絞る。

 張り詰めた弓。

 けれど――そのとき私はこの男の後ろに見えた光景に心を奪われていた。

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