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「戻らないって……えっ? な、何を言っているんですか? ここにいたらページを完全に消されてしまって、貴方まで消滅してしまうかもしれないんですよ!?」
「……構わないわ。私はここに残る。帰らないからね」
先ほどまでの穏やかな声色が一変し、急に低いトーンを奏でるあさひ。
そこからは、絶対に自分の意見を曲げないという主張の強さが見て取れた。
「……『やることがある』って、もしかして時計を消すこと、いえ、“時間を消す”こと、ですか?」
「そうよ。よくわかったわね」
「でも、どうやって……? まさか、あのネコさんから消す道具を借りた、とか」
「いいえ。自分でこれを作ったのよ」
そう言うと、あさひは小さく固められた灰色がかった物をタカラに見せてきた。
「これはね、あの上から降ってくる白い物を手で固めて作ったの。手のひらで少し丸めたら色が変わって、消しゴムっぽくなったの。で、試しに使って見たら、この空間にあるものが面白いほど消えていったの! 凄いでしょ? 普通の消しゴムよりも、砂消しゴムに似てるって感じかしら。あっ、タカラくんは『砂消しゴム』って知ってる?」
「えっ? 砂、消し……? ちょ、ちょっと待って下さい! あの上から降ってくる白い物を直接触ったんですか!?」
「そうよ。あっ、砂消しゴムっていうのはね、別に砂で作られているわけじゃないみたいなんだけど、ボールペンとかで書いた部分を削り取って消していくものらしいわ。私も、おばあちゃんが使っていたのを見たことしかないんだけどね」
タカラの心配をよそに、あさひは自分で作り出した『消しゴム』の機能がいかに優れているかについて、夢中になって話し続けていた。
「そ、そんなことより! あれに触れるなんて! どんな物がわからないんですよ!? もしかしたら、貴方まで消えてしまうかもしれないのに!」
「…………別に、構わないわ。私なんて、どうなったっていいもの」
急に話をピタリと止め、あさひはタカラに対して投げやりに返答する。
その態度は、もう本当にどうでもよくなったといった諦めの境地にも見えた。
「いいのよ、もう。どうしたって、何をやったって……」
「馬鹿なこと言わないでくださいっ! アオバさんも、鷺巣先輩も、片岡さんだってここに飲み込まれた皆さんを助けようと頑張っているんです! それなのに、何でそんなこと言うんですか!?」
「だって! 現実の世界に戻ったら、それこそ私は“消えて”しまうわ! 『早く、速く、はやく、ハヤク』、何度も何度も同じことばかり言われた! わかってるわよ、そんなこと! でも、時間は私を待ってくれない! 誰も、私を待ってくれないの! 早過ぎる時間の波に飲まれながら、私自身が埋もれてしまうのよ!」
「先輩…………」
「私ね、この世界に来て『本当の自分の時間』を取り戻せたの。別に、自分が作りたい学校がうまく描けなくても、他のみんなが作る学校を手伝っているだけで楽しかったの。だって、ここでは時間の流れを気にしないで、自分のペースでじっくり考えることができたから。誰にも急かされることなく、自分だけの時間を自分のやりたいように使えたから。私は、戻りたくない。戻りたくない! この時間のない世界で、永遠に過ごしていたいのっ!」
さらさらさらさら――――
真っ白な粒子が、止まること無く天井から降り続いてくる。
まるで、あさひの大きな心の叫びに呼応するかのように。
日々、どれだけ自分の心を偽って過ごしてきたことか。
日々、どれだけ心の波に揺れ動かされてきたことか。
そんな思いを抱えたまま、毎日を過ごすのはどれだけの苦痛だったことか。
あさひの心の叫びは、タカラにも痛いほど伝わってくる。
だって、自分もそうだったから。
抑圧された環境ではない、自由な世界で自分を出せるこの世界は、本当に居心地が良い。
ずっと、この世界にいたい気持ちもよく分かる。
でも、でも――――。
そこに、“たったひとり”でいることは、空虚だ。
今までは、ひとりでもいいと思っていた。
でも、この世界へ来てその考えは大きく変わった。
ここでは自分のことをわかってくれる仲間がいる。自分自身を正直に出せる。
『環境が子どもに合わせてくれる学校』を描いても、それを共有し、認めてくれる相手がいないのであれば、それはただの“箱”。
誰かに受け止めてもらうことで、自分の思い描いた世界がより色濃く広がることを、あの時の体験を通してタカラは強く実感したのだった。
ひとりじゃない。
ひとりじゃないことが、どれだけ力になるか。
この世界へ来て、そのことがよくわかったんだ。
「……じゃあ、僕もここに残ります」
「な、何を言ってるの!? タカラくんは帰りなさい!」
「嫌です。貴方を置いては帰れません。だって、“ひとり”は苦しいから」
「――――!?」
「僕は、貴方を待ちます! 貴方の時間を受け止めます! “ひとり”にはさせません!」
その瞬間!
ガラ、ガラガラッ――――!
立っていた地面がいきなり崩れ始め、すり鉢状の形をしたくぼみが現れる。
急な揺れにあさひはバランスを崩してしまい、その地割れの部分に飲み込まれそうになった。
「きゃあ!」
「――――先輩っ!?」
瞬間的にあさひに向かって手を伸ばすタカラ。
何とか右手を掴むことができたものの、タカラの体もズルズルとそのすり鉢状の地割れに引きずり込まれていく。
「離してっ! このままだと、タカラくんまで落ちてしまうわ!」
「そ、そんなこと、でっ、きませんよ……。くっ!」
「だ、ダメよ! 早く離して! お願いだから! 早く、早く!」
「『早く』だなんて、せ、先輩。それ、さっき言っていたこと、と、矛盾して、ますって……」
「こんな時に何言ってるの! お願い! 早く離して!」
懇願するあさひの言葉に耳を貸さず、タカラは掴んだ手を離さない。
しかし、このままの状態ではすぐに自分の腕が限界に来ることもわかっていた。
何か、何かこの事態を打開する物はないのか――――
掴んだ手が、支えている腕が、どんどんと痛みを増してくる。
自分とあさひの真上からは、あの白い粒子がさらさらと降ってきた。
その瞬間、タカラはふとあることに気づいた。
違う。このさらさらしたものは、砂じゃない。片岡が言っていた“消える液体”でもない。
何か削られたような、でも、柔らかく、練り込まれたような感じのもの。
いつも机の上に何気なくあるような、見たことのあるもの…………――――――!?
これは、“消しカス”だ。
消えずに残った“思い”だ。
だったら!
一か八か。
「タカラくん、お願いだから、もう、いいから……」
涙で顔がぐしゃぐしゃになっているあさひとは対照的に、ふっと頬を緩めるタカラ。
「言いましたよね。僕は、貴方を受け止めます!」
その瞬間、タカラは自らの全身を勢いよくすり鉢状の地割れへと飛び込ませた。
同時に、あさひの体も真っ逆さまに落ちていく。
「きゃ、きゃあーーーー! タ、タカラくんーー!?」
急降下する二人の体。
視線の先にはすぐに地面が見え、あさひは体全体で受けるであろう衝撃の恐ろしさに、ぎゅっと目をつぶった。
ポワンッ、ポワンッ。
しかし、その思いとは裏腹に、あさひの体は柔らかなトランポリンのような物に包まれ、ふわりふわりと受け止められた。
もちろん、タカラと一緒に。
「…………えっ?」
何が起こったのかわからず、あさひは瞬きを繰り返す。
そんなあさひに、タカラはアハハッと笑い声を上げた。
「ここは、校舎の一階ですね。あの上から降ってくる白い物は消える成分ではなくて、“消しカス”だったんです。上の階で消されていったものが、いえ、それだけじゃなく、他のページでも消されたものが、この下の部分に集まっていたんです。それが積もりに積もって、こんなクッションというか、トランポリンみたいな物になったのだと思いますよ。消しカスを集めてこねると『練り消し』みたいになりますよね。あんな感じなんじゃないでしょうか」
「練り、消し……」
「もっと言えば、消しカス収集所、いえ、『消えずに残った貴方の思いの収集所』とでも言うのでしょうか」
「え…………?」
「だって、見て下さいよ。このトランポリンみたいな物、僕たちの体全体を受け止めてくれるぐらいこんなに大きいんですよ? これは消すことができずに残った先輩の思いの大きさなんです。貴方は『消えていい』なんて言ってましたけど、消えない思いはこんなに残ってるんですよ? この残りの思いを消化できるまで、消させるわけにはいきませんからね。『来たときよりも美しく』って、小学校の時によく言われませんでしたか?」
「…………ふ、ふふふっ。それって、遠足の時のフレーズじゃない?」
「あっ、そうでしたね」
「……私の消えない思いってこんなにあったのね。知らなかったわ。こうやって見える形にされると、思い知らされるわね。『私って、まだこんなに未練があったんだ』って。『まだ消えてはいけない』んだって」
「そうですよ。さあ、戻りましょう」
「ええ」
再び差し出された、タカラの左手。
あさひは今度こそ、その手を強く取り、二人でゆっくりと帰り始めるのだった。
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