第11話 エピローグ

『勇者セギョンよ。お前は何を望む』

 空の上から光と声が降って来る。

 絶命したイノウエの遺体を前に、セギョンは血塗られたナイフを手にしたまま空を見上げる。

 ――イノウエもこれに遭遇したのだろうか?―― 

「私は勇者ではありません。ただの農民です」

 セギョンは空に向かって答える。

『魔王を討伐したお前には勇者になる資格がある。それを放棄するのか?』

「同じことを二度も言わせないで下さい。私は勇者にはなりません」

 セギョンは言う。イノウエのように無敵の力を手にした所で魔王になって討伐されたのでは意味がない。

 それなら身の丈に合った生き方をした方が良いというものだ。

『では一つの質問に答え、一つの望みを叶えてやろう』

 天からの声にセギョンは一瞬考える。

「それではイノウエがどうなったのか教えて下さい」

 異世界から来たイノウエは死んだ。死んだのならそれで構わない。

 だがそれ以外の何かがあるのなら知っておきたい。

『イノウエは地獄に落ちた』

 セギョンは内心で冷や汗をかく。天からの言葉に乗せられて勇者になっていたら、万が一討伐されていたら地獄に落ちる所だったのだ。

「地獄がどのような所か見る事はできますか?」

 セギョンは言った瞬間、沢山のガラスのはめ込まれた巨大な四角形の塔の上に立っていた。

 周囲にも無数の巨大な四角形の塔がある。

 ――これは全てだんじょんなのだろうか?―― 

 セギョンの身体がふわりと宙に浮く。

 見ればセギョンの身体は透き通っている。どうやら魂のような存在になっているらしい。

 セギョンの目が人がひしめいている屋根のついた石の板に吸い寄せられる。

 似たような黒っぽい揃いの服を着た、恐ろしい数の人の中にイノウエの姿がある。

 馬車のように動く鉄の箱が板に横づけになると、人々が他人の事を考えもしない様子で押し合いながら箱の中に入っていく。

 箱は人が入り切るのを待っていたかのように動き出す。

 セギョンはガタンゴトンと音を立てる箱の中を漂いながらイノウエを観察する。

 恐ろしく窮屈な鉄の箱の中で小さな文鎮のようなものを弄っているようだ。

 やがて別の石の板の前まで来ると大勢の人と共にイノウエも吐き出されていく。

 これだけでも恐ろしい拷問のようだ。

 イノウエは巨大な石の塔に入っていく。周囲にはガラスがはめ込まれているが中を見る事はできない。

「おはようございます」

 覇気のない口調で言ったイノウエが、椅子に座って動く絵の板を前に不思議な髪飾りをつけると、誰もいないのに延々と似たようなセリフで話し始める。

 同じような様子の人間がずらりと並べられている様は、まるで罪人が苦役に従事させられているかのようだ。

 やがて何人かが出入りするうちに数時間が過ぎた。

「午前中アポ取れなかったヤツ前に出ろ!」

 随分と偉そうな男が声を上げるとイノウエが前に進み出る。

「またお前か! 何回電話かけたら契約取れんだ! お前が使ってる電気代誰が稼いでんだ! みんなに申し訳ないと思わないのか!」

「皆さま申し訳ありませんでした!」

 叫ぶようにして言ったイノウエが頭を下げる。

「社訓!」

 偉そうな男が命じるようにイノウエに言う。

「一つ我々は……」

 イノウエが何か叫び始めたが、いたたまれなくなったセギョンはその場を離れると塔の屋上に出た。

 ――地獄はこれほどまでに過酷で広大なのか――

 無数の塔の中では同じような事が繰り広げられているのだろうか。

 そうであるとするなら恐ろしい事だ。

 ややあってイノウエが握り飯と透明な筒に入った茶を持ってやってきた。

 大きなため息をついて項垂れるようにして座ると握り飯を食べ始める。

「異世界にいた時は俺だって……」

 呟くようにしてイノウエが言う。自分たちの世界にいたころの記憶はあるらしい。

「そうだ!」

 イノウエがすっくと立ち上がる。

「もう一回死ねばまた異世界に行けるかもしれない!」

 言ったイノウエが屋上のフェンスを乗り越える。

 ――まさか……―― 

 イノウエが屋上から飛び降りる。が、次の瞬間、全てが逆に動いてイノウエが握り飯を持った姿勢で座らされている。

「あれ? 俺、飛び降りたはずじゃあ……」

 イノウエが狼狽した様子で握り飯を放り出して再び屋上から飛び降りる。

 しかし、次の瞬間には元の状態に戻されている。

 死ぬことができないと分かったイノウエが両手で頭を掻きむしる。

「俺は死んで異世界に……俺は勇者になって……ひひひひ、はははは」

 精神に異常を来したのかイノウエが屋上の上を這いずりながら奇声を上げて笑いだす。

 ――これが地獄か……―― 

 何と恐ろしい世界だろう。

 そう思った時セギョンの魂は身体へと戻っていた。

「セギョン! 大丈夫?」

 ジヒョの声でセギョンは我に戻った。

 傍目にはナイフを手にしたまま突っ立っていたらしい。

 だんじょんのあった方に目を向けると影も形もなくなっている。

 やはりだんじょんはイノウエの想像の産物であったらしい。

「大丈夫ですよ」

 セギョンは言ってジヒョの頭を撫でる。

 イノウエは地獄に落ち、だんじょんは消滅した。

 不思議な事、不可解な事は幾つもあるが、今はそれだけで充分だ。

「セギョン、私、あの……」

 ジヒョがイノウエの死体に目を向けて両手を握りしめる。

「ジヒョはイノウエのゆうしゃの能力に操られていたのですから仕方がないのです」

 セギョンはジヒョを抱きしめる。ジヒョが謝るような事は何一つない。

 イノウエは質の悪い流行り病のようなものだった。

 ――そしてそれは過ぎ去った――

「私、もうどこにも行かないから。ずっとセギョンの傍にいるから」

 セギョンはジヒョの体温を心地よく感じる。

 イノウエが現れる前に戻っただけと言えばそれまでだが、二人の絆はより強くなったように思われた。

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平凡な茶農家ですが何か? 朱音紫乃 @akane-sino

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