第2話 ダンジョンがやってくる
セギョンはいつものように茶葉を詰んで籠に入れていた。
茶葉は摘んでそのまま出荷できるものではなく、商品にする為にはこれから乾燥させなければならない。
誰かを雇えば仕事は楽になるのだが、それほど儲けようと思って農家をしている訳ではないのだから構わない。
ほどほどに働き、ほどほどに食べる事ができていれば特に困る事はない。
セギョンが額の汗を拭って空を見上げると突然景色が揺れた。
否、景色ではなく足元が揺れている。
木々が激しく揺れ、鳥たちが空に向かって逃れていく。
――……地震か……――
かなり大きな地震だったから村では被害が出ているかもしれない。
――ジヒョは無事だろうか?――
セギョンは考えかけた瞬間我が目を疑った。
村から少し離れた所に巨大な塔が出現していたのだ。
――気が付かないうちに頭でも打ったのだろうか?――
セギョンは痛くもない頭をさすりながら塔を眺める。
あれがジヒョが前に言っていただんじょんというものだろうか。
距離にして五里。本当にまものとやらが住んでいるのなら村が襲われる可能性もゼロではない。
セギョンは町に茶葉を売りに行く時に使っている馬に跨る。
足の速い馬ではないが歩くよりは遥かに早い。
獣道を少し広くしたような林道を通って村に出ると、村はハチの巣を突いたような大騒ぎになっていた。
誰もが塔を見上げ、人によっては神の名を叫んでいる。
「セギョン!」
どうやら傷一つ無かったらしいジヒョが嬉しそうに駆け寄って来る。
セギョンはジヒョの手を取って後ろに乗せる。
「助けに来てくれたんだ」
「もちろん。ジヒョは私の宝物だからね」
セギョンは馬の腹を蹴る。
「セギョン、どこへ行くの?」
「家に帰る。だんじょんからまものが出て来るとしてもまずは村を襲うはずだ。真っ先にうちが狙われる事はないよ」
「村の人たちがどうなってもいいの?」
「うん」
セギョンが答えるとジヒョが背中を叩く。
「そこはうん、じゃないでしょ。私を助けに来てくれた事はうれしいけどさ」
「じゃあいいんじゃない?」
セギョンは馬を走らせようとする。
だんじょんとまもの次第だが、行動半径の外に引っ越せば万事解決だ。
「私のお父さんとお母さんはどうすんのよ!」
「私たちの交際を認めてくれないんだし、いい機会だと思うよ」
「セギョン! 私は両親を助けたいの!」
ジヒョが金切声に近い声で言う。
「残念だけど私の甲斐性じゃジヒョ一人が精一杯だ」
「お父さんとお母さんを助けてくれないなら一緒に行かない」
ジヒョが馬から飛び降りようとするのを感じて慌てて馬を止める。
「ジヒョだって私の経済力くらい知ってるだろ? 物理的に養えないから養えないと言っているんだ。この先生きていくにも足手まといになる」
「それでも私の両親なんだよ!」
ああ言えばこう言うとはこの事だろうか。
両親を何とかしない事にはジヒョは素直に村を離れる事はないだろう。
だとするなら、あの塔がだんじょんと呼ばれるものであったとして、まものとやらの脅威に晒される事になる可能性は否定できない。
「ジヒョの両親さえ何とかすればいいのかい?」
親だというだけで二人の交際の邪魔ばかりするろくでなしの為に、何故苦労をしょい込まなくてはならないのだろうか。
「何とかじゃなくて助けて」
ジヒョの言葉にセギョンは舌打ちする。細かい所に気付いて訂正してくるのは長年の付き合いがあればこそだろう。
「私はあくまでジヒョを助ける。ジヒョが親を助けるのはジヒョの勝手だよ」
セギョンが言うとジヒョが首に抱きついて来る。
「やっぱりセギョンは優しいんだから」
ジヒョは嬉しそうだが両親はあくまで副次的なものに過ぎない。
セギョンは馬を走らせながらジヒョの両親を探す。
「セギョン! またうちの娘に手を出してんのか!」
「私の恋人の親だからというだけで呼び捨てにするとは、真っ当な教育を受けてきたとは思えませんね」
ジヒョの父親に向かってセギョンは言う。
このまま嫌われていっそジヒョの両親が彼女を諦めてくれれば言う事はない。
「お父さん! セギョンは助けに来てくれたの。セギョンもお父さんを挑発するような事は言わないでよ」
「私は自分に正直なだけで挑発なんてこれっぽっちも思ってないよ」
「言いやがったな! このクソアマ! うちの娘を置いてとっとと失せやがれ!」
ジヒョの父親が唾を飛ばして言う。
「良かったですね。手まで出されてなくて。人の恋路を邪魔すると馬に蹴られて死ぬという事は知らないのですか?」
セギョンは馬上からジヒョの父親を冷然と見下ろす。
元から助けてやる気など微塵もないのだ。
「セギョンもお父さんも止めてよ! 魔物が来たらどうするのよ!」
「私たちは馬に乗っているから逃げ切れるよ」
セギョンは鼻を鳴らして言う。
「降りろセギョン! ぶん殴ってやる!」
父親が喚き散らす。実に不快な生き物だ。ジヒョの父親とはとても思えない。
「殴ると言われて素直に馬から降りるとでも? あなたの頭にはイチゴ大福でも詰まっているのですか?」
セギョンが言った時、大きな羽音が響いて陽光が遮られた。
大鷲の倍ほどの大きさだろうか。翼には羽がなく、巨大な蝙蝠のようだ。
これがまものというものだろうか。
「きゃあぁぁぁぁぁぁっ!」
ジヒョが耳元で悲鳴を上げる。
「ジヒョ、私にしっかり掴まって絶対に離さないで下さい」
大鷲が餌にするために子牛を掴んで舞い上がる事がある。
しかしセギョンが乗っているのは大人の逞しい農耕馬で更に二人も人間が乗っている。
まものが掴んで空に舞い上がろうと考えたとしても重くて飛ぶ事などできないだろう。
「セギョン!」
ジヒョがしがみついてくる。このままの流れでジヒョの両親を置いて山に戻るのが最も賢明な選択肢というものだ。
とはいえ、ジヒョがこの先何年も恨み言を言うのもそれはそれでストレスだし、何よりこんな事で二人の関係が壊れてしまうのは問題だ。
セギョンは馬の腹を蹴って村人の間を駆けていく。
「セギョン! お父さんたちを置いて行くの!?」
「そうしたいけどさせてくれないんでしょう?」
セギョンはごま油農家の家先に馬を乗りつける。
農家の人間はまものを見て我を見失ったのかどこにもいない。
セギョンは馬から降りると馬具を荷車に噛ませて荷台に油の樽を運ぶ。
「ジヒョ、手伝ってください。私一人では重すぎます」
「油の樽なんてどうするの?」
セギョンを手伝いながらジヒョが言う。
「村の家々に火を放ちます」
「そんなの駄目だよ!」
ジヒョが樽から手を離し、重たい樽が地面を転がる。
「非常時なので手短に言います。あのまものは空から来るでしょう? 煙で燻せば目を開いていられなくなってこちらを襲う事はできなくなるでしょう」
セギョンはジヒョに説明する。
何となくは理解したらしいジヒョが転がった樽を支える。
「私は村人にこれ以上嫌われれる事もないでしょうから、家に火をつけるのは任せてください」
セギョンはジヒョと協力して荷台に樽を乗せるとジヒョに柄杓を渡して松明を手に取る。
馬の手綱を波打たせて馬を駆けさせる。
ジヒョが家に油をかけ、セギョンは松明の火を藁の束につけて投げつける。
油が燃え上がり空に向かってどす黒い煙が立ち上っていく。
「テメェ! 俺の家に火をつけてどういうつもりだ!」
「お陰でまものが降りてこれないでしょう? 悔しいなら他の家にも火をつけるのを手伝いなさい」
セギョンが言うと家を燃やされた男が他の家に火をつける。
家々が燃え上がり上空を舞っていたまものが空高くへと逃れていく。
家を焼いてヤケクソになっているという事もあるのだろうが、村人たちが逃げていくまものを見て歓声を上げる。
「セギョン、魔物は追い払えたがこの先どうすればいいんだ」
村長が声をかけてくる。
「村を捨てて領主の館まで行きます。まものが飛んでくるにせよ歩いてくるにせよ、だんじょんを根城にしているのなら領主の館まではやって来ないはずです」
「俺たちが助けてくれと言った所で領主が助けてくれるとは限らねぇじゃねぇか!」
男の一人が声を上げる。
「村の若い男と領主の館の衛兵のどっちが多いと思いますか? 全員が鋤なり鍬なりを持って行けば領主は蔵を開くしか無くなります」
セギョンは溜息をついて言う。これまで真面目に年貢を収めてきたのだからこういう時に取り返さなくてどうすると言うのか。
「若い衆は武器を持て! 領主の館に行くぞ!」
村長が声を上げるとセギョンに非好意的な者も従って行進を始める。
「セギョン、本当に大丈夫なの?」
背中でジヒョが言う。
「空を飛んでいるまものと戦うのと、剣を持っている兵士と戦うのとどちらが現実的ですか?」
セギョンが言うとジヒョが小さく頷く。
「私たちの村、なくなっちゃったんだね」
「村がなくなるくらいどうって事はありません。私たちの行く先が私たちの村になるのですから」
セギョンは答えて馬を歩かせる。
一昼夜歩きとおせば領主の館にたどり着けるはずだった。
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