平凡な茶農家ですが何か?
朱音紫乃
第1話 都にダンジョン現る
茶葉の緑が鬱蒼とする茶畑の脇を、小川がりるると流れていく。
周囲の灌木の作る日陰で茶農家のセギョンはのんびりと流れていく雲を見上げている。
五月の深みのない空に浮かぶ雲はどこか嘘っぽい。
セギョンは詰んだばかりの新芽を噛んでその香りを吸い込む。
爽やかな五月の風を詰め込んだような今年の茶は高く売れそうだ。
と、とたとたと足音が近づいて来た。
足音だけで分かる。
恋人のジヒョだ。
そもそも山の上にある茶畑までやって来るもの好きはそうはいない。
「セギョン」
ジヒョを一言で例えるなら氷河が溶けだした純水だ。
どこまでも澄んでいて混ざりものが無い。
「やあジヒョ」
セギョンは寝転がったまま顔だけ向けて言う。
ジヒョが小脇に抱えたバスケットからは小麦の良い香りが漂ってくる。
「放っておいたら何日でも山から降りてこないんだから、あなたは本当に人に興味が無いのね」
傍らに座ったジヒョがバスケットの覆いを除けてパンを取り出して言う。
「君の事は特別に思ってるよ」
セギョンは起き上がって小川に浸してあった瓶を取り出す。
朝一番に茶葉を入れておいたからいい具合に水出しが出来ているだろう。
セギョンがカップに茶を注ぐと、喉が渇いていたのかジヒョが一気に飲み干す。
「やっぱりセギョンのお茶は美味しいわね」
「私にはとても茶の香りを楽しんでいたようには見えなかったよ」
言ってセギョンは口にカップを運ぶ。
思った通り爽やかな香りと甘さが混じり合った絶妙な味わいだ。
発酵させた茶葉ではこうは行かない。
「セギョンはダンジョンって知ってる?」
「だんじょん? 唐突に何だい?」
セギョンはダンジョンという言葉に聞き覚えが無い。
「行商人のおじさんが言ってたんだけど、都の方にダンジョンができて大騒ぎになっているんだって」
「新手のサーカスか何かかい?」
パンをちぎって口に運びながらセギョンは言う。
「大きな塔なんだって。そこには魔王が住んでいて、沢山の魔物が出て来て人を襲うんだって」
「へー」
まおうやらまものやらと言われてもセギョンには何の事だから分からない。
サーカスに売られてきた象が逃げ出して暴れでもしたのだろうか。
「セギョンは知らないの?」
「ジヒョは常識みたいに言うけど私はだんじょんもまおうもまものも知らないよ」
本当に聞き覚えもないのだからそうとしか答えようが無い。
「魔物って言うのはとても醜くて恐ろしい姿をしているんだって」
「せめて醜いか恐ろしいかのどっちかに統一しようよ」
セギョンが言うとジヒョがぶんぶんと頭を振る。
「話の腰を折らないでってば!」
「私は別にそんなつもりで言ってないよ」
セギョンが言うとジヒョが大きくため息をつく。
「とにかくさぁ、魔物っていうのが人を殺してるんだって。王様の騎兵隊が退治しようとしたけど勝てなかったんだって」
「ふぅん」
セギョンは相槌を打つ。情報が少なすぎてどうリアクションをとっていいのか分からない。
「セギョンってば他人事なんだから」
「他人事だよ。私の畑はいつも通りだし、可愛いジヒョもいつも通りだし」
セギョンが言うとジヒョが頬を赤くする。
「いや……その……そう言ってくれるのは嬉しいんだけど、魔物が襲ってきたら兵隊だってどうしようもないんだよ。怖くないの?」
「私は滅多に都には行かないからね」
セギョンは答える。都で何かが起きている事が事実であるにしても、近づく事も無いのだから危険もないはずだ。
「魔物は人を襲うんだよ」
鼻息を荒くしてジヒョが言う。
「もう聞いたよ」
「兵隊も敵わないんだよ」
「それももう聞いたよ」
「怖くないの?」
「それにはもう答えたよね」
セギョンが言うとジヒョが落胆した表情を浮かべる。
「村では自警団をするんだー! なんて話にもなってるのに」
「いいかいジヒョ。ジヒョの話が事実だとしても当面の間村に困った事は起こらない」
セギョンは言い聞かせるようにして言う。
「どうしてそんな事が言えるの?」
「都と村は二十里も離れている。伝書鳩を飛ばしても一日では行って来れない。まものというのがだんじょんから出て来るなら、鳩や早馬より早く移動できたのだとしてもこの村にやって来る事はできない」
単純計算して、まものとやらがキャンプをしながらやって来るのだとしても徒歩なら三日はかかるだろう。
そして都から放射状に伸びている街道の中でも村へと続いている道は細い方になる。
人より強く、人を襲う事を目的にしているならまず選択肢から除外されるだろう。
「そもそもまものはどうして人を襲うんだい?」
セギョンは根本的な所を尋ねる。
「分からないよ。そう聞いただけなんだから」
「まものは家や橋を作って畑を耕すのかい?」
「そんな話は聞いてないわ」
ジヒョの言葉にセギョンは溜息をつく。
「だったら最低でもまものの行動半径は割り出せるよね? だんじょんとやらに住んでいるんだからまものはこの村にはやって来ない」
セギョンが言うとジヒョが不満そうながらも納得した表情を浮かべる。
「それにどうしてまものは人を襲うんだい? 肉を食べたいなら牛や豚の方が食べ応えもあるし抵抗も少ないわけだろう?」
「そんな事私に聞かれても……」
返答に窮した様子でジヒョが言う。
「仮にまものというのが肉食だったとしようよ。だんじょんとやらから出てきたって事は中に充分な量の食料があったか、共食いをしてたかどっちかだよね?」
「それはそうかも……」
「仮に共食いをしていたなら物凄く飢えていて力がないか、それとも手に負えないほど強いかのどっちかだ。でも王様の騎兵隊が向かって行ったって事は勝てそうに見える相手だったって事だろう? だとすればだんじょんとやらの中でまものとやらは生産活動をして……自給自足できていたって事になるよね? それなら人間を襲う動機は食料にしたいからではないって事になるよね? これは理解できるよね?」
「それはセギョンの言う通りだと思うわ」
「で、動機はともかくまものはだんじょんから人を襲うために出て来るわけで行動半径は限られている。ここでまものの食料はだんじょんの中にあるって事も同時に分かるよね。つまり、まものがこの村に来る条件としては、だんじょんから食料を運び出して隊商を組まなくてはならない。しかし、まものがそんな事をするほどこの村に強い動機を抱いているようには感じ取れない」
「それは、この村には魔物は来ないっていう事?」
「懇切丁寧に説明したんだからその程度は伝わっていて良かったよ」
セギョンは水出しの茶で喉を潤しながら言う。
だんじょんとやらでも眉唾なのに、まものとは一体何の冗談だろう。
そんな荒唐無稽な話で人を惑わそうとするのは一体どこの誰なのだろう。
――行商人が考え付いたにしては外連味の足りない話だな――
何はともあれセギョン聞いた話から考え付く範囲ではどう考えてもまものとやらが村にやって来る可能性はないのだ。
セギョンはジヒョの肩を抱く。
「つまらない噂話を気にするより私とのんびり空を眺める方が有意義じゃない?」
言うとジヒョがセギョンにもたれて来る。
「でも……何だか急に退屈になっちゃったなぁ」
「それは幸せって事でいいんじゃないかな?」
セギョンはジヒョの頬に軽く口づけしてやる気の無さそうな五月の空を見上げる。
世界がどれほど嘘っぽくとも感じるジヒョの体温だけは本物だった。
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