二羽目の烏

 朝日が昇った。

 男はかまどの火種から線香に火を移し、水瓶から桶に水を汲み、表に出た。カラスの死骸がないことに胸を撫で下ろし、借りている部屋の真後ろ、部屋と木塀の隙間に作った盛り土だけの簡素な墓に、手で水をかけ、線香を立てる。

「どうか安らかに昇ってくれよ」

 男は手を合わせると、瞑目した。

 その時、

「おい、起きてんだろ! とっとと出てこい!」

 知り合いの男の胴間声と、木戸を破らんばかりに打ち鳴らす音が、冬の冴えた朝の空気に亀裂を入れた。

「角はどうした、鬼の角を上納しろ! まさか、また討ち損じたわけじゃあねえだろうな!」

 そっと目を開いた男は、線香の灰が落ちるのをひたすら睨み付けた。胴間声はいつまでも怒鳴り続ける。怒鳴り声の合間に隣の部屋から「またか」「困ったもんだ」と聞こえてくる。

 男は中指で土を掻いた。何度も、何度も掻いて、爪に土が詰まり、指先が赤くなるまで強く引っ掻き続けた。眉間にしわが寄る。唇が白くなる。

「聞こえてんだろ、バンカ!」

 男は地面に思いっきり爪を立てた。

「兄貴、何やってんの?」

 長屋の窓からアキが眠そうに目をこすり、男を見下ろしていた。

「悪いね。うるさいだろ」

「別に寝れないほどじゃないからいいけど。それって例のカラスの墓?」

「ああ。あのままじゃ可哀想だったから」

「……そっか。ちゃんと昇ればいいな」

「そうだね」

 怒鳴り声は、木戸を力任せに殴りつけたのを最後に止み、代わりに、荒々しい足音が響き渡る。足音が長屋の門を抜けたのを察して、ぞろぞろと長屋の住人たちが表に出てきたようだ。とある男たちは急ぎ足で職場に向う最中、男の部屋の前を過ぎるときに誰も彼もが口にする。

「さっさと終わらせろよ。役立たずの穀潰し」

 とある女たちは洗濯物を片手に共同井戸でたむろい、長屋に響くような、男に聞かせるためだけに大声で言うのだ。

「鬼狩りが鬼を狩れないって、何のためのお役目なんだか」

 男はまた地面を掻く。砂に霞んだ黒いシミが筋を描く。

「アキ、もう少し日が高くなったら、蕎麦を食いに行かないか?」

「あのおっさんの所の?」

「ああ、前のお店が鬼の襲撃でダメになってさ。気落ちしてたから。アキが帰ってきてるって知れば喜ぶと思うんだ」

 アキはしばし逡巡し、

「兄貴が良いなら、良いけど」

 顔を曇らせた。

 日光が一際強くなり、寺がお昼の鐘を告げる頃、二人はひっそりと長屋と出た。目立つので丸腰に、男は目元が分からなくなるほど目深く手拭いを頭に巻いていた。

 しかしながら、男はこの城下町で唯一の鬼狩りである。大きな通りに出た途端、ひそひそと陰口を叩かれる。怒りを浮かべる眼差しを向けてひそひそと、嘲笑い、鼻を鳴らされ、唾を吐かれ。アキが睨み付けると、素知らぬ顔で目を逸らされ、傍を過ぎればまたひそひそと。

「ごめんください」

 通りから細い路地に入り、少し奥まった場所にある蕎麦屋の暖簾を二人でくぐる。すると、中にいた客がすべて二人を注視した。女将も目を丸くしていた。

「ご無沙汰してます、女将さん。アキが帰ってきていたので、久し振りに寄らせていただきました」

「どの面下げてお天道さんの下を歩いてんだ、てめえは!」

 小上がりに座っていた親父が丼をひっくり返し、やおら立ち上がった。男に掴みかかろうとするのを、仲間たちが取り押さえる。だが、彼らの雰囲気は声を荒げた親父と同じ、殺気じみたものであった。

「俺の娘が鬼に負わされた怪我で寝込んでるってえのに、へらへらと、もう十日だぞ! 何をやってんだ木偶の坊!」

「毎夜気が休まらねえってのに、気楽に蕎麦たあ、大層なもんだ」

 アキが食ってかかろうとするのを男は止めた。

「顔を見せるなと言ったはずだぞ」

 野次に紛れて板場から大将が出てきた。憎悪と怒り、二人が見たことのない大将がそこにいた。

「てめえがさっさと鬼を殺さねえせいで、前の店をたたむ羽目になっただろうが!」

 大将は男の胸ぐらを鷲掴み、男の頰に節くれだった拳を力一杯叩き込んだ。男が土間に倒れ、慌ててアキが抱え起こせば、男は小さく、蚊のささめきほどの小ささで、途切れ途切れに笑い、泣いていた。

「未来の鬼狩りだと思って可愛がってたってえのに、飛んだ期待外れじゃねえか。師匠共々使えねえ」

 今度こそアキがかみついた。

三山さんざんに起請文を納められない臆病者が偉そうに吠えるな!」

「なんだと、ガキが!」

親父の拳がアキに向かって振り上げられる。

「アキ! ……ごめん、帰ろう」

 男が大声を上げ、親父の拳が止まった。

「でも、兄貴!」

「いいんだ、——すみませんでした」

 アキの批難を聞き流し、男はアキの背を押し店の外に出た。二人の背後で、塩を撒けと大将ががなるのを聞きながら二人は歩き続ける。

「兄貴……」

「ごめん、アキと一緒なら大丈夫だと思ったんだ。昔みたいに、ちゃんと話しができるかもって……。いや、本当にごめん」

 男は俯き、努めて明るく謝る。しかし、語尾が揺れる。時折、堪らずに大きく息を吐き、感情に堰を掛ける。

 薄い空で烏が一羽、鳴いていた。烏も寒いのか男のように鳴き声の語尾が震え、掠れ、尻すぼむ。

 アキは烏を目で追った。烏は二度、旋回すると北へと飛んで行ってしまった。

「アキ、師匠の家に行ってみないか?」

「師匠の?」

 アキが横目に男を見る。

「ああ、アイツが気になってね」

 男は北の方角を見やり、目を細めた。

 男とアキの師匠が住んでいた家は城下町から外れた場所に建っている。竹に囲まれた庵と言っていいような小さな家である。師匠が生きていた頃はその狭い家に三人で暮らしていたのだ。

 師匠がこの世からいなくなって数年が経つ。男は同じ町にいながら一度として訪れたことはない。それは町を離れていたアキにも言えた。

「うわっ、なんか出そう」

 竹林にひっそりと佇む家屋は、最早廃屋に成り下がっていた。板葺きの屋根は所々が抜け、戸はなくなり中が丸見えで、そこから中を覗くと、置いていった調度品やらは綺麗になくなっていた。板間からは草が伸びている。

 男とアキはお互いに顔を見合わせると、ひょいと肩を上げ、同時に苦笑した。

 二人は家屋には入らず裏庭に回った。昔は二人の稽古場だった場所だ。そこは当然のように草むらとなっていた。竹垣はしぶとく形を残し立ち続けていたが、いかんせん、草に丈を抜かれてしまっていた。お役御免ということだ。

 ただ、すっかり廃れてしまった実家で唯一、ソレは以前と変わらず異彩を放っていた。

「やっぱり咲いていた」

 弱々しい太陽の下、魂すらも凍てつく風の中、その枝垂れ桜は濃い桃色を誇示していた。この桜は男がこの家に来て初めて迎えた春に師匠と二人で植えたものであり、鬼狩りとして生きることを決めた男を、兄弟のように、または、友のように見守り、共に成長してきた間柄であった。

「コイツはどうして春に咲かないんだろうな」

 アキが幹に触れる。

「そうだね。春に咲くと目立たないからとか?」

 男は一枝を丁寧に掬い上げる。小ぶりの花がさわさわと揺れる。

「それとも、冬は寂しいからかな。ほら、師匠が言ってただろ? 冬は色がなくなってしまうって」

「それで冬に花をつけてるって?」

 アキは馬鹿馬鹿しいといわん顔である。

「きっとコイツは、それが自分の役目だって思っちゃったんだよ。俺と一緒だな」

 突然強い風が吹き抜けた。枝が男の手からすり抜け、他の枝と一緒になって空中で踊る。

「兄貴の役目は、この町のために生きることじゃなかっただろ」

 アキの双眸を、男は真正面から見据えた。

「俺たちは鬼狩りになるために、自分の名、刀、魂、三つに誓いを立てた。でも、その中にこの町のために立てた誓いなんてなかっただろ!」

 男は何も言わずに、ただジッとアキを見つめ続ける。

「人々の安寧を守る! 鬼から逃げることはしない! 生きることを諦めない! そうだったろ!」

「ああ、そうだな」

「だったら! この町の人間を守るって言ってないなら、この町を捨てればいい! 鬼狩りの力を運ぶ烏が死んだってことは、兄貴が誓いの一つを破ったてことだ!」

 頭上で烏が鳴く。力ない声が竹林に消えていく。

「まだ二つある。あの鬼を倒して町を出よう。そうすれば師匠みたいには……」

 男はゆっくりと首を横に振った。

「駄目なんだ、アキ」

 烏の声がなくなっていた。二人の頭上の竹の葉を押しのけて、黒い物体が急速に落ちてくる。

「師匠が言ってただろ。この町の人たちは良い人だよ、大事にしなさいって。だから、俺は誓いを立てる時に無意識に思ったんだ、この町のためにって」

「起請文には記してないだろ!」

「鬼狩りの力は誓いにかける想いの力だ。だからアキ、」

 竹の葉を数枚散らし、その物体は草むらに落ちた。地面は微かにも震動せず、微風が巻き上がった。季節外れの桜吹雪が、二人の間を遮った。

「本当に、ごめん」

 男の足元には、痛々しいほどに羽根がむしられた烏が一羽、静かに横たわっていた。

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