第48話 交錯する想い
アオが死んで、ヨウは正常な判断ができなくなっていた。死ぬか、狂うか。
――そして、狂う方をヨウは選んだのだ。
ヨウに縋れる大人はいない。ただシノしかいなかったのだ。
だから、大きな覚悟を持ってヨウはシノに会いに、裏路地へ行った。
その日は新月だったのか、はたまた厚い雲が立ち込めていたのか、月も鳴りを潜めていた。
「久しぶり、シノ」
「……ええ、久しぶりね、ヨウ」
シノはヨウの表情を見て眉を顰めた。余程酷い顔をしていたのかもしれない。それさえも構う余裕なんてなかったけれど。重い口を開く。
「ねえ、シノ。……この前ね、アオが、死んだの」
シノは大きく目を見開いた。それから一拍置いて目を伏せた。
「アオって妹さんよね。……それは、お気の毒に……」
シノは、どうして死んだのかなんて訊かなかった。それがシノなりの優しさだと思った。傷口を抉ることを是としなかったのだろう。
「ううん、気を遣わせちゃってごめんね。ただ、シノに一つ頼みたいことがあって」
「……何なりと」
「ヨウはね、今正常な判断ができていない。きっとそう。でも、ヨウは生きる意味を見出せなくなっちゃったの」
「では死ぬの」
その時のシノの表情は無表情だった。
ヨウはその無表情に安心した。いつも通りの、静かな表情。こういう時はいつも通りが一番ありがたかったりする。あまりに自分勝手な考えだけれど。
「うーん……。死ぬ方がいいかって訊かれたらよくわからなくて」
「私は……。……いいえ、何でもない」
シノは口を開きかけて、そして閉じた。何かを言おうとしたけど言えなかった、そんな表情をしている。とりあえずヨウは話を続けることにした。今という時間はあっという間に過ぎ去ってしまうのだから。
「だからね、シノ。今、ヨウには狂ったまま生きるか、このまま死ぬかの選択肢が示されているの。正直どっちでもいい。生きる意味も、死ぬ意味もなくなっちゃったんだから」
そこで家から持ってきた二つの薬包紙を取り出す。シノはそれを覗き込む。ヨウの思惑が解ったのか、少しだけ眉を顰めた。
「これは……」
その言葉とともに、シノがヨウの方に見せてとでもいうように手を差し出してきたから、ヨウはそのまま薬包紙を手渡す。シノのことは信頼していたから。
「こっちは猛毒。飲んだら即死。そして、こっちはヨウが創った忘却の薬」
「完成させたの……」
シノが胡乱な表情で訊いてくる。当たり前だろう。だってそんな薬、誰も実現するはずがないと思っているだろうから。
「ううん、正直まだ実験段階かな……。だから、薬効がどうなるかはわからない。でも理論上はちゃんと記憶を失えるはず。まあ記憶を失うっていっても半年から一年くらいだろうけど。だから、今日は家に帰ってこれを飲もうと思う」
「……は?」
始めて聞くシノの声だった。こいつ正気か、なんて瞳が物語っている。でも、ヨウが狂っているのは正しかった。
正しく狂うだなんておかしいね。狂うに正しいも何もないのに。
「こんなことシノは聞きたくも知りたくもないよね。でも、最後に頼れるのがシノしかいなかった。もし、忘却の薬を飲んでヨウがおかしくなったら……こっちの猛毒をヨウに渡してほしいの。その時は一思いに死にたいから。……違うな、こういうことが言いたかったんじゃない」
ああ、思考がまとまらない。首を振って考える。
ふとシノがヨウの肩に手を置いた。ひんやりとした体温が服越しに伝わってくる。
「大丈夫、私は待つから。ヨウが言いたかったことは、何……」
シノの声にまるで魔法が掛かっているかのように、すっとヨウの思考がクリアになった。アオがいなくなってからごちゃごちゃしていた記憶が急に整理される。
「ありがとう。……本当はね、シノにお別れを言いに来たの」
「お別れって……」
「そう、ここ一年くらいの記憶を失うから、もうシノのことを忘れてしまうかもしれない。だから今の関係は終わる可能性が高い。……まあ、でもまだ薬は完成形じゃないから、もしかしたら何かのきっかけに全てを思い出すかもなんだけど。それでもやっぱりシノとの関係は無になっちゃうかもしれない。だから、」
シノの瞳と視線を交わらせる。
「シノ。今までヨウといてくれてありがとう。短い間だったけれど、たのしかった。ごめんね、そしてありがとう」
そう言って頭を下げた。混乱していたここ数日で一番まともなことが言えたかもしれない。シノの表情は直視できなかった。
「……いいえ、どういたしまして。それがヨウの選択なら、私はとめない」
シノは踏み込んでこなかった。自分本位なヨウの選択に怒りもしなければ、引きとどめることもしなかった。
だって、ヨウとシノは出会って半年にも満たない程度の付き合いだった。人の死や記憶に立ち入るには、まだ時間が必要だった。
「でも、そうね……。ヨウ、一つ私からもお願いさせてほしい」
「何でも言って」
ヨウのほうがかなり無茶ぶりをしているのは痛いほどわかっていた。
「……その前に、ヨウは本当に記憶を失いたいか訊きたい」
あれ……。
シノの言葉に、ここにきて痺れるような衝撃が走った。
本当に記憶を失いたいか。どうなんだろう、わからない。だって、今記憶を失おうとしているのは、それしか選択肢がないかと思ったから。だから改めて本当にそれがヨウの意志だったのかと訊かれると、わからなかったのだ。
「わからない……」
「ヨウにもわからないものがあるなんて」
シノは薄っすらと笑みを浮かべた。嘲るような笑みではなく、どこか縋るような笑みだった。それはただの錯覚かもしれないけれど。
「だってヨウが忘れたいのは、アオが、……死んだことだけだったんだもん。少なくともシノと過ごした思い出は忘れたくない」
それは心からの願いだった。アオが死んだことさえ忘れればいい。でもそんな都合のよい薬なんてないのだ。
「さっきヨウは、何かのきっかけで記憶を思い出すかもしれないと言ったはず……そうよね」
「うん、言ったよ」
記憶について考えているうちにわかったことがある。
それは、記憶とはそれ単体で存在しないということ。つまり、全ての記憶はお互いに絡み合って存在しているのだ。
海に入った記憶からアオのことを思い出しそうになるのも、修学旅行という言葉からシノと過ごした夜を思い出すのも、月を見てシノを思い浮かべるのも、全て全て絡み合っている。人とは絡み合った記憶の上に存在しているものだとヨウは思う。
というわけで、一つでもなにか思い出すきっかけがあれば、紐づけされた全ての記憶が戻ってくるはずなのだ。
「では、そのヨウの記憶を思い出すきっかけを手伝わせてもらえない……」
「……え?」
今度はヨウが混乱する側だった。どうして、そんなことを言うのだろう。
「どうせ思い出してしまうのなら、早いうちに思い出した方がいいはず。……私だって、ヨウが私との一年を忘れるのは……哀しい」
ヨウは言葉に詰まった。確かにヨウのした選択は、なんて自分勝手なんだろうか。でもそれすらも考えられないほど、アオが死んでから正気を失っていたのだ。
それに、と言葉をつづけながらシノはこちらを見た。意志の強い瞳だった。そこにあったのは、哀しみを超越した何か。シノはつよいひとだった。ヨウが尊敬するくらい、真っすぐなひとだった。そこにきっとヨウは安心を見出してきたのだ。
シノは言葉を静かに紡いだ。
「……そんな一方的に捲し立てられて私が満足すると思っているの。今までありがとう、はいさようなら。それで私が納得すると思われているのなら、私も舐められたものね」
シノの言葉からは憤りが感じられた。その怒りは妥当だと思う。ヨウだって逆の立場なら怒っていただろう。でも、シノは喚き散らさなかった。それが一番ヨウにとって堪えた。
「ごめん、シノ」
ああ、薄っぺらい言葉。ごめんを免罪符にするなんて。でも、今はこれしかヨウは言葉を持たなかった。なんて愚かだったんだろうと思った。でも、それでも生きていくにはアオを忘れないとやっていられなかった。
今はシノがいるから心の平静が保てている。けれど、独りきりの家に帰ったら、またおかしくなる。そんなのは耐えられなかった。
「謝罪はいらないわ……ヨウだって、考え抜いてその結論に至ったのだろうし。記憶を思い出すのが嫌なら断って頂戴。私の独善的な考えだから」
「そんなことはないよ」
即答だった。ヨウだってシノとの思い出を全て失ってしまうなんて、それも耐えられなかった。正常な脳ならそう判断する。だけれど、もう戻れなかった。
「薬は飲む。これは決定事項。……だけど、そうたね……シノがよかったら、ヨウの記憶を思い出すきっかけを作ってほしい。本当に、シノがよかったらだけど。面倒くさかったらやめてもいいから」
やっぱりシノのことは忘れたくなかった。
「……わかったわ」
シノはようやく微笑んだ。心底安心した、そんな笑みだった。よく笑うシノは笑顔を器用に使い分ける。今シノがどうやって笑ったかわかるようになってきたのも、数々の思い出のおかげだった。この笑顔を忘れたくない。
でもアオの死だけは、死の瞬間だけは忘れたかったのだ。正気を失うほどに。
この不整合さが、きっとどうしようもないこどもなんだろうと思った。
「ふふ、私は本当に誰もわたしを知らない世界で仮初の自由を手に入れるのね……ヨウが記憶を思い出すのが楽しみかも」
シノは悪戯っぽい笑みを浮かべた。少しヨウの罪悪感が拭われた気がした。
「そうだね。でも、シノ、改めてごめんね」
この言葉と同時に、無言でシノに手を差し出す。シノに見せた薬包紙を返してもらうためだった。シノもそれを理解したのか、手に持っていた薬包紙を一つ、ヨウの手に乗せた。きれいな言葉と共に。
「謝罪なんかいらないとさっきいったわ。私は謝罪されるためにここにいるんじゃないから。感謝の言葉なら受け付けるけれど……」
シノのこういうところが好きだった。
「ありがとう、シノ」
「どういたしまして……」
「……」
「……」
自然に会話が途切れてしまい、重い沈黙が路地裏に立ち込める。お互い事の重大さを噛み締めたのかもしれない。少なくともヨウはそうだった。
「ねえ、シノは幸せに生きてね。ヨウは記憶を失って、シノのことが思い出せないかもしれない。それでも、幸せに生きてほしい。……自由になってね」
シノはようやくこちらを見た。
「ええ、ヨウも……忘却の魔法で、幸せになって……」
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