第47話 狂った原因
狂った約束が交わされて、ヨウは心置きなく実験に専念できた。
そして、もう忘却の薬が完成を迎えていた。
♢
忘却の薬を飲むとき、ヨウは決まって海に入る。もちろん無意識で。
薬を飲んでもすぐに意識は失うことはない。でも、頭がぼんやりとする。酩酊した頭でふらふらと海の奥に行こうとする。
記憶を失うということは生まれた状態に一歩後退するということ。生命は海から生まれたから海に戻ろうとするのかもしれなかった。
そして記憶を失ったヨウはいつも海で目覚めるのだ。その度に妹のアオに連れ戻された。だから、あの日もアオはバスタオルを持ってきてくれたのだ。
また記憶喪失? なんてあの日アオに言われたのもきっとそのせい。
でも記憶を失う薬なんて、そんな簡単に創ることができるはずがなかった。ヨウに創ることができたのは、飲んだ後の数十分の記憶ができないような薬。失うではなく、記憶させないための薬。
でも、そんな薬に需要があるわけではなかった。ヨウは過去の記憶を失いたかったのだから。
まあでも、記憶を失うという薬がそんな簡単にできたら、この世界の歴史は半分以上変わっていたかもしれない。例えば大統領になった人間に記憶を失わせたら国は崩壊するし、世代交代はもっと早くなっていただろう。歴史だって改変される。
記憶をいじるというのはそういうことだ。だから、禁忌。それはきちんとヨウは理解していた。だからこそ、自分のためだけにつくろうと思っていたのだ。この世に存在しないのだから、ヨウが創らないといけない。
でも、いくらヨウが天才といえど、十年そこら生きただけの人間がそんなものを創るというのは夢物語に近かった。
だから逆に良かったのかもしれない。誰も死なないし、傷つかない。狂っている割に、なんて平和な実験。ヨウ一人がこの実験で死んだとしても世界になんら影響はないのだから。ヨウが死んでもシノがなんとかしてくれる。あの約束は正しくヨウにとってプラスに働いていた。
――アオが死ぬまでは。
アオが死んだヨウは耐えられなかった。
♢
アオは、ヨウの目の前で死んだ。
中間テストの貼りだしがあった日。お気に入りのシャープペンシルが胸ポケットから飛び出していった日。その日、アオはトラックに轢かれて死んだ。
あの日は正しく厄日だったのだ。
♢
アオを失ったことでヨウの何かが外れた。泣いても喚いてもアオは帰ってこない。誰も慰めてくれない。慰めなんていらない。でも、泣けど喚けどトラックの運転手にはダメージを与えられないし、ダメージを与えたとて、アオは生き返らない。
流す涙はなかった。無駄なことはしない主義だし、もう枯れてしまったかもしれない。
抜け殻になった時にふと目に入ったのは、ずっと実験していた記憶にまつわる薬だった。飲んで十数分は何も脳に記憶されないというような薬。でも、これでは何も意味がない。前からわかっていたが、アオを失った今、それが痛いほどよくわかってしまった。
ふつう人間は”忘れる”生き物である。
どんなに辛い体験しても、いつかはその記憶も褪せていく。
唯一無二の親友が亡くなってしまっても、数年後には違う友人と共に大笑いしている。それが正しいのだ。故人だってそれを望んでいるはずだから。
親族が亡くなった時どんなに泣き喚いても、時間と共に徐々にそれを受け入れられるようになる。
良くも悪くも、記憶は褪せるから。そうやって人類は前に進んできた。
だからヨウは、忘却とは神様から与えられたプレゼントだと考えていた。ヨウは神様なんて信じていなかったけれど。
そこまでならよい。所詮想像の範疇なのだから。けれど、ヨウが一番恐れていたことが現実に起こったのだ。記憶を失う薬が完成する前に。
ヨウは生まれながらにして誰もが持ち合わせている「忘却」というものを持っていなかった。だから、アオが死んだ瞬間だってずっとずっと覚えている。あと一年後も、十年後も、五十年後も。あの死に顔だって忘れられない。
毎晩あのシーンが夢に出てくる。睡眠薬を飲んでもダメだった。
だから、記憶を失う薬が必要だった。
しかし勿論、過去の記憶をいじるなんて許されている代物ではなかった。折角得た記憶を失おうとするなんて、正気の沙汰じゃない。はっきり言って狂っている。
でも、アオのいない世界でヨウは生きる意味を見出せなかった。
狂うか、死ぬか。誰にも縋れないヨウにとってその選択肢しか残されていなかったのだ。もしヨウがおとなというものを信頼し尊敬していたら、カウンセリングにかかったり傷を癒してもらうことができた。或いは神というものを信じていたら、もう少しは救済があったのかもしれない。
不幸なことに、ヨウは絶望的な哀しみを一人で何とかしなければならなかった。
だからそんなヨウに残された選択肢は、狂うか死ぬかしかなかった。
よって、ヨウは狂う方を選んだ。ただそれだけだった。
でも実際に、ヨウに狂う方の選択肢を選ばせたのはシノだった。
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