第37話 最後のアルバイト

 なんやかんや言って深夜のアルバイトは続けていた。お金はもうあまり必要なかったけれど、簡単に辞められるような職場ではなかったからかもしれない。


 深夜零時。黒いパーカーのフードを目深に被る。そして、足音をなるべく立たないようにして裏路地に入る。足早に通り過ぎ、三番目の角を右に曲がって、次に五番目の角を左に曲がる。それを五回ほど繰り返すと、地下室への入り口が現れる。


 いつしかすっかりこの道は見知ったものになっていた。


 "パスワードをお入れください"


 赤い文字がスクリーンに浮かび上がる。テンキーに百桁ほどのパスワードを寸分違わず打ち込む。段々と手が覚え始めている。


 カチッ


 軽い開錠の音がしたので中に入る。いつも通り、ただ乾いた無機質な空間がヨウを迎え入れた。

 左右対称、どこまでも等間隔に並んでいるドア。ドア以外の壁に貼られた鏡。そのせいでこの廊下が永遠に続くように感じるし、自分が今どこにいるかもわからなくなる。しかしこの感覚にも慣れた。廊下に入って十九番目のドアの前に立つ。


 ♢


 いつものように薬を渡し、お金を受け取る。そしていつものようにお金と次の依頼の手紙を確認する。いつも通りなら、ヨウは死なないから。


 しかしいつもとは違って、手紙が入っていなかった。


 ヒュっと胸の底が縮む思いがした。ジェットコースターで感じたものと似ている。唯一違うのは、ジェットコースターには命を守る安全ベルトがあって、今のヨウには存在しないことだ。


 命の危険を感じて頭が高速に回転を始める。そう、ここではいつもと違う行動を取ったら殺されるのだ。機械のように、いつも通りの作法を繰り返す。それが信用に必要なもの。そしてヨウがここで安全に取引するのに必要なもの。


 しかし、向こうがいつもと違う動きをしてくるのは予想外だった。でもここで慌てる素振りを見せてはならない。こちらがむやみやたらに慌てたら、何もなくても信用に値しないと判断され即座に殺される。

 多分この怪しい組織は、人一人くらい屠るのなんて、朝飯前に行うだろう。とりわけ家族が実質いないヨウなんて屠るのはたやすい。そんなことが容易に想像できる。


 ――考えろ、考えろ。生き延びるために考えろ。


 ここで死にたくはない。シノとの卒業式が待っている。失った記憶を失ったまま死ぬなんて許されなかった。ここまできて、終わる?

 冷や汗が一筋、背中を伝っていった。でも、表情には出さず相手の動向を待つ。ヨウが動くことはゆるされない。

 動いたら死ぬ、動かなくても死ぬかもしれない。なら、少しでも可能性の高い方に賭けろ。


 そんなヨウの緊張をよそに、相手は徐に一枚の紙を取り出した。ぱっと見たところ、何も書いていない紙。それからマッチを取り出した。この部屋をヨウごと燃やすのか。


 そんなことはなかった。相手はマッチに火をつけると、真っ白な紙をさっとあぶった。

 浮き上がる文字。そうだ、これは硫酸で書かれた手紙。だからあぶったのだ。燃えやすい紙だったのか、端から炎をあげ始めている。ちょっと。これは急いで読まなければならない。


 ♢


 これが、貴殿の最後のアルバイト。今までご苦労だった。


 この施設も組織も今日限りでこの場から消滅する。文字通り、跡形も残らない。

 だから、誰かに言っても話は通じないだろう。何なら警察に言っても構わない。本当に消滅するのだから。ここまで言ったら、聡明な貴殿はどうすればよいかわかっているはずだろう。


 では、最後に。もう二度と出会わないことを願っている。


 ♢


 紙は静かに燃え尽きて塵芥と化した。それでもヨウは周囲に警戒を続けていた。

ご苦労だった。なんて銃口が突き付けられるかもしれない。それは流石にサスペンスドラマすぎるか、なんて考えるがそうならない保証はどこにもなかった。死人に口はないのだから。


「というわけで――もうここにはこないと約束して」


 思ったよりも澄んだ声が目の前の人物から発せられた。大きなフードに顔も髪の毛も隠れて見えなかったが、声質から相手は女だということがわかった。声変わりする前の少年の声に聞こえないこともないが、これは十中八九、女だ。


「……もちろん。用がなければ来ないし、誰かに口外なんてしない。約束する。そうしたら自分は死なない?」


 口の中はからからだった。一歩間違えれば死ぬ。考えろ。生き延びるために、考えろ。

 でも目の前の女、ひいては組織の思惑がわからなかった。ヨウを屠るのなら、黙ってそうすればよいのだ。敢えてこの質問を問いかける意味がわからなかった。


「そうですね。ここで貴方を屠ってもいいのだけれどそのほうが面倒。貴方は賢い。どうすれば死なずに済むかわかっているはず。ねえ、そうでしょう?」


 フードの奥に黒い瞳が覗く。洞のような瞳は光を映していなかった。思わず吸い込まれそうになる。頭に浮かんだのは畏怖の二文字。あと一歩で囚われるのを踏みとどまった。

 だからその瞳がすっかり見知ったものだということに気が付けなかった。


「――うん。死にたくはないからね。賢いから、今日限りでここのことは忘れる。自分は何も見なかったし何もしなかった。これで、どう?」


「及第点。まあ、貴方が愚かではないことを祈ります。では、後ろのドアから出ていきなさい。ここはあと三十分で存在しなかったことになるのだから」


 ふと目の前の女はどうするのだろうかとぼんやり考えた。ここもろとも消されてしまうのだろうか。いや、彼女も同じくアルバイトで最後の仕事をしているのかもしれない。


 外に出た。周りに人の気配なんてなかった。フードを被り直し、できるだけ足早に通り過ぎる。裏路地から大通りに出て、学校の目の前を通り、それからようやく家にたどり着いた。


「ただいまー」

 なんとか家にたどり着いた。アオに挨拶をしてそのまま自室のベッドにダイブした。もう深夜。肉体的にも精神的にもつかれた。シャワーもせず、寝間着に着替えることもなく、そのまま意識が引きずり込まれるようにして寝落ちてしまった。


 眠りに入る寸前、ドンと低く鈍い音が遠くからした気がした。少し床も揺れたかもしれない。地震ではない。

 ああ、これであの施設がなくなるんだと、何故か当たり前のように思った。


 明日も目が覚めますように。卒業式まで生きられますように。


 そう願いながら、眠りに落ちた。結果、ヨウは死ななかった。また平坦な日常が戻ってきた。


 あまりに非現実すぎて、あのアルバイト自体、夢だったかもしれないなんて思った。

 

 でも、多分自分は長生きできない。それこそ卒業式に死刑宣告でもされるかもね。それでもいい。ただ、記憶だけを取り戻せたらそれでいい。

 ――欲を言うならば、シノの人生を端から眺めていたい、くらいかな。


 思ったより自分は生きることに無頓着だとうことに気が付いた。それでも、死を突き付けられたら生にしがみつきたくなるくらいには、きちんと生に執着していることもわかった。


 この先どう生きたいか。ヨウは自分が一番よくわからなかった

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