第4話 引越し
外壁の三分の二以上が緑に覆われたアパート。カグヤのセーフハウスはその三階にある。ウィーンの中心部からやや外れた場所で、ブルーナー家からは車で二十分かかった。昨日シカがカグヤと出会った場所は、ここから徒歩で二時間近くかかる。昨日カグヤがそれだけの時間迷子になっていたのなら、相当疲れていただろうとシカは思った。そもそもアンドロイドが体力切れになるようなことも想像できなかったが、カグヤが最終的に路地裏で雨宿りしていたところを見る限りは、疲れや諦めも人間同様にあるのだろう。それでも態度に出ないのは、喜怒哀楽と結びつけていないからなのだろうか。
シカの父はカグヤの案内を必要とせず、セーフハウスまで迷いなく向かっていた。不思議に感じたシカが理由を尋ねると、父は質問を待っていたかのようにすぐ答える。
「実はカグヤのセーフハウスを用意したのはお父さんなんだ。なんならカグヤの名前を決めたのもお父さん」
「やっぱりそうだったんだ。名前の由来はかぐや姫だよね?名付け親がお父さんだったら、安直すぎじゃないかって言うつもりだった」
「ひどいなあ。安直すぎるって話は日本人の同僚にも言われた。でも可愛いからいいだろ」
父は子供のように拗ねた。無類の日本好きである父は、日本人とオーストリア人の間に生まれたハーフだ。容姿はオーストリア人にデザインされている。しかし父は日本人として生まれたかったらしく、そのことをよくシカに話していた。そこまで日本が好きである理由はシカには分からなかったが、祖母の家には日本から持ってきた本が多くあったため、それらから影響を受けたのだろうと思っていた。
カグヤが玄関の扉を解錠する。セキュリティは近代的で、カードキーと生体認証の二重ロックだ。老朽化が進んだ廊下に対して、かなり異質である。
セーフハウスは必要最低限の生活品と娯楽品のみで、狭いLDKにしては空間に余裕を感じるほど閑散としていた。
リビングには腰ほどの高さの本棚があり、小説を中心に十数冊の本が収納されている。収納スペースの半分も埋められていないため、何冊かは横に倒れていた。
シカが本棚を眺めていると、一冊だけ古びた本を見つけた。日本語で書かれた「かぐや姫」だ。シカはそれに見覚えがあった。たしか父の所有物だったはずである。父が幼少期から読んでいた本のひとつで、シカも読んだことがあった。大切にしていた本を渡すほど、父はカグヤに思い入れがあるのだろう。娘同様に思っていてもおかしくない。
「シカ、何を見ているのですか」
本棚をじっと見て動かないシカに、カグヤが後ろから声をかけた。
「この本。私の家にあった本だなって思って」
「その本は私がダフィットさんに、カグヤという名前の由来を聞いたときに借りたものです。もうとっくに読み終わっていますが、たまに読み返したくなって借りたままなんです」
カグヤは照れくさそうに話を続ける。
「月ではコードネームで呼ばれていましたから、人間のような名前をつけてもらえたことが嬉しくて。それに月のお姫様と同じ名前だなんて、この上ない光栄です」
「はは、そう言ってくれるのはカグヤだけだよ」
段ボールに小物を詰めていた父が口を挟む。
「さあ、話してないでさっさと引っ越しの準備をしよう」
ブルーナー家に持ち込む必要のない家具や家電は、大家の計らいでセーフハウスに置いていくことになった。人気のある物件だから、住人もすぐに見つかるだろうとのことだ。
最終的に運ぶことになった荷物は、十分に車に収まる量だった。セーフハウスから立ち去るときには、カグヤは名残惜しそうにしないだけでなく、車で遠ざかっても一度も振り返ることをしなかった。それを見逃さなかったシカは、彼女に話しかけるべきか悩んだ。一人暮らしはカグヤにとってつまらないものだったのだろうか。それならこれから一緒に暮らすことが嬉しいものであるはずだが、シカは一度拒否した手前、今更喜びを共有するのは恥ずかしく思えた。
帰宅してカグヤの荷物を運び終えると、今度は部屋の準備に取り掛かった。
ブルーナー家には小部屋が三つある。二つはシカと父それぞれの寝室で、残り一部屋は書斎になっていた。書斎には本だけではなく大量のオーディオ類が置かれている。映画を観るためのプロジェクターまである。書斎というより、視聴覚室や資料室に近い。昨日はカグヤの強い要望により彼女を書斎で寝かせたが、今後もその部屋で暮らすなら物を減らす必要があった。
「ここには人間の人格を学習するために有用な媒体がいくつもあります」
カグヤはそのようなことを言いながら必死でシカとダフィットを止めていたが、ついには物が三分の一まで減らされた。代わりに空いたスペースにはベッドやクローゼットなどを配置した。どんどん涙目になるカグヤを、シカは面白がって見ていた。
「お二人とも、酷いです」
遅めの昼食をとりながら、カグヤは不平不満を吐いていた。いっぱいに口に詰め込んだサラダが彼女の頬を膨らませて、余計怒っているように見える。まるで幼い子供だ。
「まあまあ、ほとんどはリビングに移動しただけだから。それよりも昨日みたいに雑魚寝される方が困るよ」
「それに関しては問題ありません。人間と同じく身体に違和感を抱くようプログラミングされていますが、実際に異常が起きることはありません。アンドロイドですから」
「だからそれは分かっているんだけど、僕の良心が痛むんだって」
何度も同じように繰り返す二人の会話に、シカは早々に混ざるのをやめて、必要なときに適当な返事をするだけになっていた。客観視すれば夢に見たような状況なのに、現在のシカにとっては面倒この上ない。
人間の名前をつけられて喜んでいたくせに、都合の悪いことではアンドロイドだということを主張する。わがままだが、人間じみているなとシカは思った。
そして埒が明かない二人の言い合いに口を挟もうかしばらく迷った後、更に面倒になる予感がしてスープと一緒に言葉を飲み込む。
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