第2話 月のAI

「それじゃあ、月には宇宙人はいないけど、AIがいるんだ」

「そういうことだね。カグヤはそのAIの一部」

 ダフィットは帰宅後のルーティンをこなしながら、シカにカグヤのことを話した。

 シカの父ダフィット・ブルーナーは、ウィーン郊外に位置する国連宇宙空間平和利用委員会(通称COPUOS)で働いている。

 半世紀以上前、宇宙開発を推進するために、人類は地球以外の拠点も視野に入れていた。その拠点候補が月だったのだが、月の所有権を得るために各国が言い争いになり、結果的に第三次世界大戦を招くことになった。戦争が激化し、宇宙開発資源が枯渇していくなかで、とうとう収拾がつかないことに見かねた国連がCOPUOSに月を使わせることにしたのだった。これまで宇宙開発の国差を均すだけだったCOPUOSは、正式に宇宙開発部を発足。世界中からその手のエキスパートを集め、各国の宇宙開発機関に平等に情報を提供している。これらはすべてインターネットに公開されているものであり、シカも調べたから知っていた。

「まぁ月で活動するには、人間じゃあ心許ないからね。ずっといられるわけじゃないし。だから月ではAIに委ねて、無人で宇宙開発をすることにしたんだ」

「そんなこと、COPUOSのホームページには載っていなかったけど。まだ公表してないってこと?」

 シカは父に背を向けて鶏肉を切っていた。お父さんは娘に、月のAIについて話したことを後悔しているだろうか。しかし好奇心に抗えないシカは、これ以上聞かれたくないであろう父に、あえて目を合わせないでいた。

「あぁ、CAIMSEについてはまだ公表していない。その理由がカグヤだ。人間社会にAIが紛れ込んでいると知れたら、大変なことになるだろう?」

「それはそうかもしれないけど、私には話してよかったの?」

 シカが振り向いたとき、ドアベルが鳴った。シカの祖母、ミサキ・ブルーナーが夕食を作りに来たのだ。ベルの音に反応して、手隙のカグヤがいち早く玄関に向かった。シカはなんとなく嫌な予感がしてカグヤを静止しようとしたが、遅かった。祖母はドアを開けるカグヤを見るなり、短く悲鳴を上げて尻もちをついてしまった。シカは肩をすくめて祖母を助けに行く。

「大声を出してごめんなさいねぇ。シカちゃんが出迎えてくれると思ったら、また別の可愛い子が出てきてくれたものですから」

 シカの祖母は軽く腰を叩きながら、カグヤに笑いかけていた。シカ以外の子供に出迎えられることがよほど珍しかったらしく、腰を抜かしたようだった。それに、カグヤのような奇抜な容姿は誰でも驚くだろう、とシカは思った。

 それから祖母はゆったりとした足取りでリビングに向かい、残業でいないはずの息子を見て更に驚いていた。そして上着を脱ぎながらキッチンに向かう。

「あら!皆そろって。しかもゲストもいるなんて、今日のお夕食は楽しくなりそうね!」

 祖母はそう言うと、肩から下げていたチルドバッグからパンナコッタを取り出して、次々と冷蔵庫に閉まっていった。パンナコッタはシカの好物である。祖母が宝物を隠すように閉まっていく様子を見て、シカは嬉しくなった。


 四人で夕食をとった後、ダフィットは職場に連絡するため自室へ向かった。キッチンのシンクで食器を洗うシカは、すぐ側のリビングにいるカグヤに何かを話しかけようとしていたが、椅子に座って微動だにしない様子を見て、どう話しかけようか悩んでいた。カグヤの斜め向かいに座っていた祖母は、シカがカグヤに話しかけられないところを察して雑談を始めたが、カグヤの容姿にはいっさい口を出さなかった。その代わり、シカ以上にカグヤのことが気になったのか、淡泊な返事をするカグヤに対して何とか会話を続けさせようとしていた。

「私はねぇ、ここから東の方にある日本から来たのよ。あの時は大変だったわ。戦争が始まろうとしていたから、飛行機に乗るのもとっても緊張して」

「どうして緊張していたのですか」

 カグヤの間髪入れない質問に、祖母は急いで紅茶を飲んで続ける。

「それがね、オーストリアに行くには、どうしても仲が悪い国を通らなければならなかったのよ。でも、そのおかげでシカちゃんのおじいちゃんと出会えたから、よかったわ」

 シカはその話を何度も聞いたことがある。当時は戦争前に他国へ移住することはよく見られた行為らしいから、珍しくはない。映画やドラマにするほどの一大決心でもないと言えるだろう。祖母も移住したことに話の重きは置いていなかったが、移住のために乗った飛行機でたまたま隣の席に座っていた人と結婚したことが、よほど運命的だったらしい。カグヤには話さなかったが、運命の出会いを果たすまでに大げさな脚色がされたこともあった。真偽のほどはシカには分からなかったが、少なからず灰被りのような、嫌な出来事が起きた後の幸せを飾り付けることにはなったのだろう。ましてや祖父のような、高身長で容姿が整っていて、更にユーモアに富んだ男性との出会いなら。祖母には、おとぎ話に出てくる白馬の王子様に見えたに違いない。

「では、あなたがオーストリアに来なければ、私がシカに助けられることもなかったのですね」

 カグヤは感慨深そうな顔をしていた。シカは今まで固い表情しか見せなかったカグヤが感情の片鱗を見せたことに驚いた。

 祖母もカグヤの表情を見て嬉しくなったのか、目尻にシワを溜めて満面の笑みになった。

「そうよ。シカちゃんはおじいちゃんに似て、困った人には最後まで手を尽くすタイプなの。じゃなかったら、私は今頃日本で孤独に暮らしていたわ」

「人間は運命の出会いをすることで、発展してきたのですね」

「その通り。そういう意味では、あなたがシカに助けられたのも、運命かもしれないわね」

 カグヤは下を向いて目を細めた。数秒した後、祖母をまっすぐに見つめて口を開く。

「たしかに、シカが私を助けてくれなければ、私はここにはいなかったでしょう。まだ路地裏でうずくまっていたかもしれません。ですが私を含むCAIMSEは、一人の男性により作られました。運命的な出会いがあったから作られたものでもありません。そして作られたAIは自己増殖するように作られました。つまりCAIMSEが繁栄するには、運命の出会いどころか、誰の介入もいらなかったのです。今までは」

 食器を洗っていたシカが手を拭いてカグヤの向かいに座った。いつも食卓を囲むのは父か祖母との二人だけだったが、今日は倍の人数だ。当然洗わなければならない食器もたくさんあった。祖母に押し付けるわけにはいかないが、カグヤと二人で談笑されるのも悔しかった。そのため急いで洗うために勢いよく出した水が、トップスの袖を濡らしてしまっていた。今度はシカが聞き役になるために、急いで質問する。

「今までは?CAIMSEに何かあったの」

 シカが会話に入ったのを確認して、祖母は紅茶をすすりながらシカにウインクをした。シカは祖母に気を使われていたことに気付いて恥ずかしくなった。

「はい。新しく生まれたAIの人格が、CAIMSEの創始者に似てきたのです。はじめCAIMSEは創始者の人格をもとに作られました。ですが、それだと創始者の意向がそのまま月の運営に反映されてしまうとCOPUOSが危惧したのです。そのためベースとなる人格は創始者のままにして、新しく生まれるAIの人格を別のものに徐々にずらすことにしました。そうしてCAIMSEは繁栄したのですが」

「結局創始者の人格に戻りつつあるんだ。じゃあCAIMSEは創始者の人格をコピーした一つのAIに始まって、今まで亜種が増えていったんだね。まるでプラナリアみたい。創始者の色んな可能性がCAIMSEに詰まっているってことでしょう?」

「プラナリアは存じ上げませんが、シカの解釈で正しいです。CAIMSEのAIにはそれぞれ役割が与えられています。人間と同じようにCAIMSEのAIだけで会議もします。しかし皆が創始者と同じ人格になったら、それは創始者一人の独断で運営されているも同然になってしまいます。そこでCAIMSEは創始者とは別の人格を導入することにしました」

「もしかして、カグヤの目的はそれ?」

 カグヤが頷く。

「私は地球に行く任務を与えられたとき、胸が高鳴りました。そのときはまだ身体を与えられていなかったので、あくまで錯覚ですが。私はミサキが言っていたような、運命の出会いができることが嬉しかったのかもしれません。そして私は、とうとう運命的な出会いを果たしました。シカに出会えて、私は嬉しいです」

 優しく微笑むカグヤに、シカはつい目を逸らした。初めて見せるカグヤの表情に照れただけではない。彼女の喜びに素直に応えられないこと、自分が失敗作であることが情けなく感じたのだ。シカは再びカグヤを見て、不器用に愛想笑いをうかべた。

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