【休止中】カメリアと羽衣

斜玲亜犀

第1話 カグヤ姫

 オーストリア、ウィーン。ドナウ川にかかる橋をバスが渡る。そのなかで、シカ・ブルーナーは窓から外を眺めていた。

 外は雨が降っている。年間降水量が少ないウィーンでは、雨が降るのは珍しい。シカは数時間前までブルーだったドナウ川が、今ではすっかりカーキに濁っている様を眺めていた。

 ドナウ川を見る度に、シカは祖母の言葉を思い出す。

「シカちゃんの目は、よく晴れた日のドナウ川のようだね」

 私はそんな綺麗なものじゃない、とシカは思った。だって晴れた日のドナウ川は、空の澄んだブルーを反射する。おばあちゃんは目がブラウンの日本人だから、オーストリア人とは色の見え方も、感性も違うのだ。第一、おばあちゃんが好きな「わが祖国」のモルダウ川だって、水面をブルーだと表現したじゃないか。水面の澄んだブルーは、私の中途半端で濁った目とは正反対だ。

 一か月前、ギムナジウムに入学したシカは、早々に友人作りを諦めた。周りの誰とも馴染めないことが、一目瞭然だったからである。

 デザインベイビーが一般化した社会。第三次世界大戦で人種が混沌とした時代に、劣性遺伝を守る目的で決定した、ヨーロッパの政策。シカの周りにはブロンズヘアーにブルーアイなど、人種がはっきりしている人がほとんどだった。肉体的な個性を捨てるどころか、そういった純血主義をよしとする大人達で溢れかえっていたのだ。

 些細な医療事故で、親の意向とはかけ離れたデザインになってしまったことを、シカは呪った。ピュアなブラックヘアーに、明度の落ちたブルーともグリーンともいえない目。男勝りで、不器用なのに心は繊細。せめて外見だけでも失敗してほしくなかった。


 バスの停車ベルが鳴ると、シカはもたれていた窓から頭を離し、急いでバスを降りた。

 髪は窓にできた結露で濡れていた。十月の寒さは凍えるほどではないものの、シカの体温を奪うには十分すぎるほど雨で冷え切っている。

 いつもであれば、ここで様々な音楽が聞こえる。音楽学校が近いせいか、路上で小銭稼ぎをする演奏家が多いのだ。しかし今日に限っては、雨で大事な楽器が濡れないよう、大人しく家にこもって練習しているようだった。その方がシカにとって都合がよかった。

 音楽に興味がないシカは、父や祖母の受け売りでニッチなジャンルしか知らない。父からはジャズを、祖母からはプログレッシブロックを。それも、既に亡くなっているアーティストばかりだ。学校でクラスメイトが話す流行りのアーティストに関しては、もはや名前を知っていればいい方。そもそも、音楽の話をするほど仲が良い友人はいないのだが。

 三年前、路上で「ブルーに生まれて」を歌っている人がいた。シカはたまたま父と歩いていたところで、聞こえてきた歌詞に腹を立てた。本当の意味は違うかもしれないが、青い目に生まれなかった自身に対する僻みとしか思えなかったのだ。

 父にそのことを打ち明けたときは、それまで感じてきたストレスが堰を切ったようにあふれ出して、泣きながら文句を言っていた。困惑した父は床に崩れ落ちた娘に寄り添って、ひたすら謝り続けていた。後で知ったことだが、「ブルーに生まれて」は父が特に好きな曲の一つだった。とんだとばっちりだっただろうに、とにかく過度に謝るものだからシカは逆に申し訳なくなって、今後は嫌な思いをしても父には話さないと誓った。

 だから、音楽は無い方がいい。それに今はフードに当たる雨の音で十分だった。シカはワックスドジャケットのフードを更に深く被る。


 住宅街に入る手前で、祖母に買い物を頼まれていたことを思いだした。

 祖母は一緒に住んでいるわけではないが、父親が多忙なタイミングを見計らって、夕食を作りに来てくれていた。いつも夕食の献立を隠す祖母に対し、「今日の夕食は絶対にチキンオムレツだ」とシカが思ったのが、祖母の連絡を受けた今朝の出来事である。シカは鶏肉と卵、玉ねぎを買いに、スーパーに向かう。


 スーパーへ続く道に入るとき、白猫がシカを横切った。雨に濡れていても分かるくらい毛並みが良い猫だった。飼われている猫だろうか。しばらく見つめていると、猫がシカと目を合わせた。

「きれいなブルーの目。君もデザインされたの?成功してよかったね」

 猫に向かってシカは嫌味を吐いた。ひとり言でも、雨の音で聞こえないだろうと思った。

 しかし、猫はシカの声が聞こえたのか、目を細め、短く鳴いてみせた。シカの足元にすり寄り、どこかへ連れていこうとする素振りだ。

 シカは過去にも同じような経験をしたことがある。そのときは、子猫のところへ連れて行かれた。里親を探していたのか、子供を自慢したかっただけなのか。しかるべき所に電話して猫を保護してもらったが、それが猫にとって正しかったのかは今でも分からない。余計なお世話だったかもしれない。

 あのとき、私のせいで猫の人生をめちゃくちゃにしてしまっていたら。今回の猫はそのリベンジをさせてくれるのだろうか。シカは白猫についていくことにした。


 路地裏に入って、白猫が立ち止まった。シカに物をどかしてほしいと訴えているようだった。シカは該当の物へ視線を移す。

——人間だ。

 正座をしているから背丈は分からない。頬の肉付きを見る限りは同年代の子供だろう。銀色の髪が濡れている。暗い路地裏であるにも関わらず、光を吸収して透けているようだった。

 予想に反した事態にシカが動けないでいると、正座をしていた子供が立ち上がった。

「こんにちは。あなたは誰ですか」

 透き通るようなソプラノボイス。目が合ってはじめて分かったが、この子供、おそらく彼女の目は吸い込まれそうなくらい深いコーラルピンクだった。同世代の子供達とは全く異なる容姿に、シカは驚きながら答える。

「私はシカ・ブルーナー。あなたこそ誰?ここで何をしているの」

「私の名前はカグヤ。ここで雨宿りをしていました」

 カグヤという名前に、シカは聞き覚えがあった。日本の昔話に、同じ名前の姫がいたはずだ。だとしたら、彼女は日本人だろうか。日本人は髪や目の色が、ブラックに近いブラウンだったはずだ。

「ここで雨宿りをしなくても、建物に入ればよかったのに」

「周辺のマップ情報を持っていません。それに、店舗には物を買う目的がなければ入れないと聞いています。」

 声は可愛らしいのに、返事は妙に機械的だとシカは思った。

「迷子ってこと?家の帰り方も分からない?」

 カグヤは静かに肯定の素振りをする。彼女が動くのにつられて、濡れた髪から水滴が落ちた。

「それじゃあ、私の家に来る?身体も冷えているだろうし。明日は祝日だから、あなたを泊めることもできる。まあ、あなたのご両親が許してくれたらだけど」

 シカが提案した。今までろくに友人を作らなかったから、家に人を招くなんてこともしたことがない。だから緊張した。相手が明らかにデザインされた純血主義だったら、絶対に断られるだろう。しかしカグヤはどの人種にも属さない見た目をしている。純血主義ではないはずだ。それに彼女の髪や目の色が自分の意向によるものでないとしたら、よき理解者が得られるかもしれない。とにかく早くカグヤを家に招いて、彼女のことについて聞きたくて仕方がなかった。


「シャワー、ありがとうございました」

 カグヤが浴室から出てくる。濡れた服を洗濯する間、カグヤはシカの服を借りて着ることになったが、二人の身長差はそこまで開いていなかったため、ジャストサイズで着ることができた。

 シカの家に行くまでに、カグヤは一人暮らしをしていて、家族は遠くに住んでいること、インターネット端末は持っていないこと、天気が悪い日は方向音痴になることを話した。同世代の子供にしては少々おかしい話に聞こえたが、シカにはどうでもよかった。会話自体はできるし、そこまで憔悴もしていなかったようなので、シカはカグヤを連れて祖母に頼まれた買い物も済ませた。

 シカはカグヤがシャワーを浴びている間に、祖母と父親に電話をかけた。二人とも、シカが人を家に招くのが珍しかったようで、急な頼みにも関わらずあっさり承諾した。特に父親は、カグヤの特徴を話すと驚いたような声を上げていた。

「ところで、シカはシャワーを浴びないのですか」

 髪をタオルドライしながら、カグヤがたずねる。

「それじゃあ、さっき買ったものを切ってから浴びに行こうかな。カグヤも、私に構わずゆっくりしてね」

 シカは手を洗ってから、冷蔵庫からさっき買った鶏肉と玉ねぎを取り出した。カグヤを家に招くにあたって、祖母にも迷惑をかけるだろうから、せめてこれだけはやっておこうと思ったのだ。それに同世代の子供と向き合って話すのが、シカにはどうにも恥ずかしくてならなかった。友人同士の自然な会話ができるかどうか、心配だった。

「カグヤは、どこから来たの」

 玉ねぎの皮をむきながら、シカが話しかける。

「月から来ました」

「月?そんな地名あったっけ」

「地球にはありません。私は、ここから約四十万キロ離れた月から来ました」

 冗談で聞き返したのに。シカはなんだか馬鹿にされているような気分になった。冗談で嘘をつくにしても、あまりに突飛な話だ。それとも、本当に月から来たと信じているのだろうか。髪や目の色も、すべて月から来た設定に沿ってのことなのだろうか。シカは一旦、カグヤの話に乗ってみることにした。

「じゃあ、月から来たなら、カグヤは人間ではないの」

 ここでカグヤが宇宙人だ天使だのと言いだしたら、シカは早々に話をやめて何事も無かったように彼女と接するつもりだった。カグヤは少し黙った後、平然と答える。

「私はアンドロイドです」

「え」

 玄関の扉を解錠する音が聞こえる。足音が近づき、リビングの扉が開かれた。シカの父ダフィットが帰ってきたのだ。シカには残業する予定だと伝えていたが、随分と早い帰宅だった。カグヤは無視して話を続ける。

「私は月を拠点とした宇宙開発用AI、通称CAIMSEから派遣されてきたアンドロイドです」

 驚くシカを尻目に、父はやはりかと頭を抱えた。

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