第116話 うおあぁぁぁ……!

「ゆ、祐介くん。温風と冷風、どっちがいい?」

「れ、冷風で……」

 いよいよドライヤータイムがはじまる。

 エアコンも効いていたし、最初は温風でお願いしようかなと思っていたんだけど、さっきのやり取りで那月さんが俺の肩に触れたのと、那月さんが俺の髪に触れるんだと思うとさらにドキドキしてしまって、エアコンがあまり効いてないように思えたから冷風でお願いした。

 頭から滴り落ちているこの水分はふききれていなかった水なのか、それとも汗なのかわからない。できれば水であってほしい。那月さんの綺麗な手を俺の汗なんかで汚すのは嫌だ。

「わかったよ」

 那月さんがそう言うと、後ろから「ブオー」という音が聞こえた。那月さんがドライヤーをオンにしたようだ。

「じ、じゃあ! やっていくね!」

「お、お願いします!」

 ドライヤーの音に負けないように、自然と声が大きくなる。

 そしてドキドキもさらに大きくなる。

 病院の待合室で名前を呼ばれたような感覚だ。病院は嫌だけど、今から行われるのは、きっと『幸せ』なことだけどな。

 やがてゆっくりと俺の頭にドライヤーの冷風がかかる。

「……!」

 びっくりしたのと、意外と冷たかったので背中に震えが走った。まだ髪が濡れているからか、夏だとしてもやっぱり冷たいと感じてしまう。

「……」

 少しのあいだ、色んな方向から風があたり、それも少し慣れてきたタイミングで、那月さんの手が俺の髪に触れた。

「……っ!」

 な、那月さんの細く、綺麗な手が、お、俺の髪に……!

「祐介くんの髪、さらさらだ~!」

「そ、そりゃあ、さっきお風呂に入ってまし……入ってたから……!」

 うおあぁぁぁ……!

 や、ヤバいこれ! ドキドキがハンパない。

 前に那月さんと手を繋いだ時と同じくらいドキドキする。心臓が痛いくらい跳ねている。

 那月さんの手が俺の髪をいたり、撫でたり、髪の根元もちゃんと乾かそうと俺の髪を後ろに押さえつけたり……!

 正直、ものすごく気持ちいいし幸せなんだけど、俺にはハードルが高い。

 那月さんにめちゃくちゃドキドキしてるのを悟られないようにするのが精一杯だ。

 世のカップルは、こんな行為を毎日しているのか!? ドキドキしすぎて心臓がもたないぞ!?

 那月さんは……顔が見えないけど、さっきの声のトーンからすると、きっとこういうのもやり慣れているんだろうな。

 元カレたちがどうしようもないヤツらばかりだったとしても、那月さんとお付き合いをして、今の俺みたいに髪を乾かしてもらえたわけなんだよな。

 なんか、思えば思うほど那月さんって恋愛経験豊富でレベルが高くて、俺なんかが太刀打ちできるのか不安になってくる。

 レベル一の雑魚モンスターが、レベルとステータスがカンストしている勇者と対峙しているような気分になるけど、いくら自信がなくても那月さんを好きになってしまったんだ。このまま那月さんを諦めたり、誰かと付き合う那月さんを見ているだけなんて絶対に嫌だ。

 たとえ可能性が限りなくゼロに近くても、俺がレベルを上げさえすれば可能性もおのずと上がるから、俺が頑張るしかないんだ。

 一体何を頑張ればレベルが上がるのか、那月さんが俺を意識してくれるのかはわからないけど、とにかくがむしゃらにやるしかない。

 手始めに……筋トレでもしようかな? 書店のバイトで腕の筋肉は少しはついたけど、他は普通だ。腹筋も割れてないから、腹部のトレーニングを重点的にやってみよう。

 そしてゆくゆくは告白───

「…………っ!」

『告白』

 ……そのワードを思い浮かべたことにより、中学時代の嫌な記憶がフラッシュバックした。

「どうしたの祐介くん?」

「あ、あぁ! ……な、なんでもないですよ」

「そう? ドライヤーの風、寒かったら言ってね?」

「はい」

 あの時のトラウマを思い出してしまって、背中がブルっと震えてしまったけど、どうやら那月さんは風が冷たかったからと思ってくれた。

 那月さんはあの時の女子たちみたいに、告白を面白おかしくネタにする人じゃないってわかっている。

 俺の周りにも、そんなことをする人はいないってことも……。

 だけど、振られる恐怖より、また誰かが変な噂を流すのでは? という恐怖の方が強い。

 俺をずっと心配してくれたあの二人がいたから、なんとか高校まで出ることができたけど、もう、あんな思いはしたくない。

 くそ……これじゃあ告白なんてまだまだ無理そうだな。

 しかもよりによって、那月さんが髪を乾かしてくれる極上の時間にそれを思い出すなんて……。

 もう髪はだいぶ乾いてきたな。

 きっともうすぐ終わってしまう……。

 今はトラウマは忘れよう。

 残り少なくなった極上の幸せを堪能しよう……。

 それから一分ほどでドライヤータイムは終了した。

「ありがとうございます那月さん」

「……どういたしまして」

 ん? なんか変な間があったけど、どうしたんだ?

 俺は立ち上がり那月さんを見ると、那月さんは手を後ろで組んでるようで、微妙に顔が赤い……ように見える。

「祐介くんは、もう寝ちゃうの?」

「いや、まだ起きてようかなって……」

 あと一時間くらいは起きてるつもりだ。

「じゃあ、もう少しお話……しない?」

「も、もちろんいいですよ」

 那月さんとおしゃべりできるなら喜んでする。なんなら夜更かしだってする!

「じ、じゃあ、ドライヤーを部屋に置いてくるから、ちょっと待っててね」

「は、はい」

 おしゃべりが終わったあとにでも持っていけばいいのにと思ったけど、那月さんは言い終わるとタタタッと小走りで廊下に出ていった。


 私は半ば逃げるようにして自室に入り、持っていたドライヤーをベッドの上に落として、へなへな~っとフローリングに腰を落とした。

「あ、危なかった……」

 祐介くんの髪を乾かしているあいだ……ううん、乾かしはじめる前から、ずっとドキドキしっぱなしだった。

 それもこれも、祐介くんが私を見て『綺麗』なんて言ったから……。

 自分でもよく平常心を保てたなって思う。

 祐介くんの髪……すごくさらさらしてた。お風呂上がりだからかもしれないけど、手触りがすごくよくて、もっともっと触れていたいって思った。

「ダメ……完全に、好きになってる」

 ドライヤーで髪を乾かすくらいって思ってた部分もあったけど……完全に甘く見ていた!

 心は本当に幸せですっごくドキドキしていたんだけど、同時に心労がすっごくある。手を繋いだ時と同じか、それ以上のドキドキ疲れが。

 他の男性と付き合った経験はあって、男女のアレコレも一応一通りは経験しているのに……手を繋いだりは慣れていると思っていたし、髪を乾かす行為も手を繋ぐ行為やアレコレに比べたら全然余裕なんて思ってたのに……。

「余裕なんて、ないよぉ……」

 膝枕……しなくて本当によかった。してたら絶対に私の身がもたなかったし、最悪……理性を保てていたか……。

「うん……膝枕は、ちゃんと付き合ってからにしよう」

 祐介くんと付き合えるよう、祐介くんが意識してくれるよう、アピールしないとね。

 さっきので少しでもドキドキしてくれてたら嬉しいし、頑張ったかいもあったって思えるけど、どうなのかな?

 私からは聞く勇気がないから、ドキドキしてくれたって思うようにしよう。

「あ、祐介くんを待たせてるんだった」

 いつまでもここで座っていたらいけない。早く戻って祐介くんとお話したい。

 その時に、一度地元に帰りたいって伝えないと。

 もう三ヶ月以上戻ってないし、来月にはお盆もあるから、お母さんたちに近況を……本当に好きな人ができたって伝えたい。

 友達のミキとメグにも連絡して、久しぶりにふたりとも遊びたい。

「早く戻らなきゃ」

 いつまでも戻らないと、祐介くんが心配しちゃうからね。

 男の人と一緒に暮らしていて、こんなに心配してくれたことなんてなかったから、もうちょっと心配させて祐介くんの気を引きたいって思うのはやっぱりダメだから、戻ろう。

 心もだいぶ落ち着いたし、これならいつも通り祐介くんとお話ができる。

 私は「うん」と頷き、立ち上がって祐介くんが待つリビングダイニングに移動した。

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