第114話 一度そっちに帰るよ


 那月さんが、俺のここでの日常を劇的に変えてくれた。

 特別なことは数えることしかしてない、言うなれば『普通』のルームシェアだ。

 だけど、帰ったら誰かがいてくれる……待っててくれるって思うだけで特別感を感じられた。

 那月さんを好きになっていくにつれ、新たな日常の『普通』が、『幸せ』に変わっていった。

 それこそ、那月さんが隣にいてくれないとダメなくらいに……。

『……そう。よかったわ』

 母さんは心から安堵した声で言った。

 母さんと父さんにもどれだけ心配かけたかわからないからな。マジで早く自立して親孝行して恩を返さないと。

「母さん」

『なに?』

「俺、夏休みに入ったら、一度そっちに帰るよ」

『っ!』

 母さんが息を呑むのがわかった。

 地元にいい思い出がほとんどなく、俺が帰りたがらないのを知っているから、両親から『帰ってこい』なんて言われたことがなかったけど、いつまでも両親に顔を出さないのはダメだし、地元の仲のいい二人にも、そろそろ会いたいと思っていた。

 それから、今の俺が地元に戻って、どれだけ平気でいられるかも知りたい。

『あんた……大丈夫なの?』

「わからないけど、とにかく帰るから。顔見せないのも、悪いからね」

 母さんはしばしの沈黙のあと、とても優しい声で「そう」と言って、こう続けた。

『あんたにとって、心境を変える出会いでもあったのかしら?』

「そ、それは……」

 俺の地元でのトラウマは、まだ完全に消えたわけではない。地元に帰って、もし万が一、面白半分で『振られ神』のあだ名や噂を流した陽キャたちと会ってしまったら……って恐怖は感じている。

 でも……それでも一歩を踏み出せる勇気をくれた……那月さんとの出会いがあったから。

 那月さんが俺の心を少しずつ変えてくれて、もう一度人を好きになる気持ちを取り戻せた。

『その出会いが、女性ならもっと嬉しいのだけど、どうなのかしら?』

「……」

 恥ずかしくて黙ってしまったけど、この沈黙は肯定と同義だと次の瞬間には悟ってしまった。

『うふふ、もしもその人との仲が深まったら、紹介してほしいわ』

「そ、それはわからないけど……」

 今もどうやったら那月さんが俺に少しでも好意を寄せてくれるか悩んでるのに、付き合える付き合えないなんて、まだまだ先の話になる。

 というか、異性を好きになる気持ちを取り戻せたけど、俺が好意を向けているのは、当時から会ったこともないようなレベルの完璧なめちゃくちゃ可愛い美人さんだ。

 ……そう考えると、那月さんとお付き合いできる気が限りなくゼロに思えてきた。

『やっぱりその人が祐介の好きな人なのね!?』

 消沈する俺を気にすることなく、電話越しの母さんの声は弾んでいる。

 電話越しだから俺の心境はわからないからな。

『その人にお礼を言わないとだから、やっぱり一度会っておかないといけないわね』

「……本当にお礼だけ?」

『さあ? どうかしらね』

 絶対にそれだけじゃないな。

 これ以上電話を続けると那月さんの話題ばかりになりそうだし、そろそろ那月さんも風呂から出てくるかもしれないから、そろそろ切ったほうがいいな。

「そろそろ風呂入るから切るよ」

『あ、祐介!』

 俺が電話を終わらせようとしたら、母さんが少し強い口調で俺を引き止めた。

「どうしたの?」

『あんたが帰ってくるの、私もお父さんも楽しみに待ってるから、元気な顔を見せてちょうだいね』

「……うん」

 俺たちはおやすみを言い合って電話を切った。

『久しぶり』か……地元にいる時も、アレのせいであまり笑えてなかったもんな。

 うん、帰ったら笑って『ただいま』を言おう。

 電話を切ってから三分後、那月さんが風呂から出てきたので、俺も風呂に入る準備に入った。

 ……那月さんがTシャツにショートパンツ姿で露出が高く、かつ髪をタオルでふきながら出できた姿がすごく画になっていたので、廊下に出るまでにかなりチラチラ見てしまったけど。

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