第93話 触れて、くれないんだ

 風呂から上がり、いよいよお待ちかねのディナータイム。

 色とりどりの料理が並ぶが、中でも目を引くのはトンカツ! このキツネ色をした見事な衣……見ているだけで食欲をそそられる……!

 だけど、視線を上げると、そそられる食欲をゼロにしてしまう出来事が起こっていた。

「……」

 那月さんが何故か不機嫌だ。目を閉じ眉を寄せ、唇をちょっとだけへの字に曲げている。

 え、なんで? 俺、何かした?

 風呂に行く前はあんなに上機嫌だったのに、この短時間に一体何が起きた?

 いや、俺が気づかないだけで、知らない間に那月さんに失礼な振る舞いをしてしまったんじゃあ……。

 思い出せ思い出せ! 俺は最近那月さんに何をした!?

 スーパー銭湯……は、けっこう前だし、だとすると那月さんが体調を崩した辺りか?

 俺は那月さんが体調を崩した三日前を、朝の部分から思い返して、すぐに心当たりに直面した。

 そうか! お姫様抱っこをしたからだ!

 あの時は那月さんが心配で、那月さんの許可をとらずにお姫様抱っこをしてしまったから、体調が戻った今になって不機嫌になってるんだ。

 そ、そりゃあ必死だったけど、那月さんを持ち上げた時に、『うわ、すげーいい匂い』って思ったのも事実で、あの一瞬だけは不純な気持ちも混ざっていた。

 那月さんはそんな俺の心まで見透かしていたのか!?

 くっ、さすが色んな人と付き合ってきた恋愛上級者だ。こんな彼女いない歴イコール年齢の『童貞振られ神』の心など手に取るようにわかるのか……!?


 私は祐介くんと自分のご飯をよそってから席についた。

 夕食なのに、対面には祐介くんが座ってるのに、私は今、すごく不機嫌な顔をしている。

 これには海よりも深い理由があって……。


 祐介くんを見ちゃったら、絶対にドキドキして顔にも出ちゃうから。


 祐介くんがお風呂に入っている間、悶々としながらも、なんとか祐介くんの前で平常心でいられる方法を考えた結果、『祐介くんを不用意に見ない』という考えに辿り着いた。



 さっき風呂入ったばかりなのに、エアコンをつけているのに汗が止まらない。

 会話もない。

 どうする? やっぱりここは誠心誠意謝るか? いや、でも今は食事中だし、那月さんの箸も止めてしまう……。

 でも、このなんとも言えない空気のままで食事をするより、謝って少しでもいい空気にして食べた方が那月さんの料理も何倍も美味しくなる。そうと決まれば……!

 俺は持っていた箸をゆっくりと置いた。

 その音で那月さんは片目を開けてチラッと俺を見たけど、またすぐに閉じてしまった。そんなに早く閉じなくてもと思ったけど、やっぱりあのお姫様抱っこ……相当嫌だったんだな。

「あの……ごめんなさい那月さん!」

「…………へ?」

 俺は椅子に座ったまま、頭を下げて誠心誠意謝ったんだけど、那月さんから聞こえてきたのは気の抜けた返事だった。

 あれ? 思ってた反応と違う。

「えっと……なんで急に謝るの?」

「そ、その……風呂から出たら那月さんが不機嫌で……俺が何かやらかしたのは間違いなくて、それで那月さんに何をしたかを考えて……お姫様抱っこをしてしまったからだと思ったから……だからごめんなさい! 那月さんは嫌なのにお姫様抱っこをして……不用意に那月さんに触ってしまって、本当にごめんなさい!」

「……」

 考えがまとまらなくて、文脈もなかなかにバラバラだけど、それでも伝わったはずだ。

 那月さん、許してくれるかな? この分だと那月さんの怒りはかなりのものだから、許してくれる可能性は低い……よな。

 許してくれなかったらショックでへこんでしまうけど、それなら許してくれるまで何度でも謝るまでだ!

 那月さんからはなんの反応もない。それだけ俺の罪は重いということか……!

 俺が頭を下げている中、那月さんがお茶碗と箸を置く音が聞こえた。


 祐介くんが突然謝ったのって、やっぱり私がムスッとしているのが原因……だよね?

 祐介くんの顔を見ないようにって考えた結果、そんな考えに辿り着いてしまったんだけど、それが逆に祐介くんに罪悪感を抱かせてしまった。

 祐介くんは何も悪くないのに……むしろ感謝しかないのに……あのお姫様抱っこも、その時の祐介くんの表情も、とってもドキドキしたのに。

 わ、私も早く謝らないと……!

 祐介くんを見てたらドキドキするなんて思ってる場合じゃない!


「その……私の方こそ、ごめんなさい」

「え?」

 突然耳に届いた那月さんの謝罪。

 俺は驚いて顔を上げると、那月さんはとても辛そうな……いや、なんだか罪悪感で押しつぶされそうな、そんな表情をしていた。

「な、なんで───」

「祐介くんは何も悪くないのに、それなのに謝らせてしまって、本当にごめんなさい」

「俺は悪くないって……そんなことは───」

「さっきまでムスッとしてたのは、私の個人的なことが原因なの! 祐介くんが私をお姫様抱っこしたのにはびっくりしたけど、でもそれは最初だけで、今では……感謝と、嬉しさしかないから」

「そ、そうなんですか?」

 個人的なことってなんだろう? 気になるけど、さすがに踏み込みすぎるから聞かない方がいいよな。那月さんも答えてくれそうにないっぽいし。

 ……あれ? 感謝と───

「嬉しさ?」

「っ!」

 さっき那月さんが言った言葉が口をついて出てしまったんだけど、それを聞いた那月さんの頬が一瞬で真っ赤になった。

 お姫様抱っこの話をしていて『嬉しさ』って……それって───

「ち、違うよ祐介くん!」

「うわっ!」

 頬が真っ赤な那月さんが突然立ち上がって大声をあげた。ひ、びっくりしたぁ……。

「わ、私が嬉しかったのは……祐介くんが看病してくれたことであって、決してお姫様抱っこが嬉しかったわけじゃないからーー!」

 ……そんなに全力で否定しなくてもいいのに。

 まぁ、わかってたけどね。

 元カレが最低なヤツらばっかりだったとはいえ、恋愛経験豊富な那月さんが俺のお姫様抱っこで嬉しくなったりするわけがない。

 そもそも俺は同居人としか見られてないんだから、今の段階で過度な期待を持つのはダメだ。

 まずは、俺を意識してもらうところからはじめないと。

「わかってますよ那月さん」

「へ?」

「でもやっぱり不用意に触れてしてしまったことは謝ります。ごめんなさい。これからは、あまり触れないように心がけていきますので」

「え……え?」

 意識してもらうと言っても、まずは勝手にお姫様抱っこをしてしまったマイナスイメージを消し去らないといけない。だからしばらくは今まで通りの『普通』の距離感を維持することに努めよう。

「その……謝った俺から言うのもアレですけど、ご飯、食べましょう」

「……う、うん」

 那月さんは静かに椅子に座り直し、俺たちは箸を持って夕食を再開した。

 謝ったことでなのかは定かではないが、さっきよりも場の空気は良くなった気がする。


「…………触れて、くれないんだ」


 那月さんの作ったトンカツに舌鼓を打っていた俺に、那月さんがボソッと言った一言は届かなかった。

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