第82話 いか、ないで……よ
現在、時刻は午後十時を回ったところ。
俺は風呂に入って、適当な本と飲み物を持って那月さんの部屋に戻ってきたんだど、那月さんは眠っている。
息が荒いとかはなく、本当にすぅすぅと寝息を立てている。
これで明日には熱が下がってくれるといいんだけどなぁ……あ、でも熱が下がっても体力が落ちてるから、那月さんに家のことをさせるのは申し訳ないし、明日も休もうかな?
さすがにバイトは休めないけど、もし明日熱が下がっていたら、夕方までには体力もそこそこ戻ってそうだし。
そんでマユさんにも明日、改めてお礼を言わないと。
そうだ。明日は弁当を買って帰ろう。病み上がりの那月さんに料理をさせるわけにもいかないし。
そこまで考えて気づいた。
俺、めちゃくちゃ楽しんでる。ワクワクしてる。
那月さんとの予定を考えるだけで、こんなにも心躍るなんて……。
長らく忘れていたけど、那月さんは風邪でしんどい思いをしているのから不謹慎かもしれないけど……好きな人との予定を考えるのって、こんなにも楽しいことなんだな。
考えてる予定も、本当に日常における『普通』のことなのに……。
数時間前に司に言った「那月さんと過ごすこの『普通』が、俺の中で『幸せ』に変わっていった」を、まさに今、身をもって体感している。
中学時代にあんなことがあって、もう恋愛はしないなんて言っていた俺が、女性との共同生活でこんなことを思うようになるなんてな。
「那月さん。早く元気になってください。あなたが元気に笑っている姿を、俺は見たい」
俺は好きな人に小さくそう呼びかけ、ベッドのそばに置いてあった椅子に腰掛け、持っていた本を開いた。
それから一時間ほどが過ぎた夜の十一時、那月さんに変化が起きた。
相変わらず眠ってはいるんだけど、どうやら夢でうなされているらしく、息遣いは荒く、苦しそうだ。
俺はすぐさま本を閉じて椅子から立ち上がり、床に膝立ちになって那月さんの顔を覗きこむ。
「うぅー……や、だぁ……はぁ、はぁ……」
悪夢にうなされている。汗もすごくかいている。
くそ! 俺はなにも出来ないのか!?
……そうだ。夢の中の那月さんは助け出せなくても、せめて顔の汗をふこう。
俺は急いでリビングからタオルを持ってきて、那月さんの額の汗を起こさないように優しくぬぐった。
一瞬、悪夢にうなされているなら起こした方がいいのでは? という考えに至りそうだったけど、風邪を引いている状態で一度目が覚めてしまうと、マジで寝つけない可能性がある。
悪夢からは解放されるけど、もし悪夢の内容を覚えていたら、悪夢と熱、二重の苦しみを那月さんに与えかねない。
だから俺は那月さんを起こすのをやめた。
「……!」
好きな人が苦しい思いをしてるのに、こんな……汗をふくことしか出来ないなんて。
俺は自分の無力さを思い知り、歯噛みをした。
そこからさらに三十分程が経過した。
那月さんは先ほどに比べたら呼吸はだいぶ安定している。どうやら悪夢は終わったのかな?
一体どんな悪夢を見たのだろう?
どんな夢にしろ、こんなにも頑張っている那月さんにこれ以上苦しみを与えないでほしい。
「くぁ……!」
落ち着いた那月さんを見て少し気が緩んだのか、俺の口からあくびが出た。
もうすぐ日付が変わる時間だもんな。
普段の俺なら既に夢の中だ。
まだ少し心配だけど、もう悪夢を見ることもないだろうし、俺がここにいても出来ることはない。
それにもし、眠りの浅くなった那月さんが俺の気配を察知して起きてもいけないし、俺もそろそろ寝ようかな。
俺は立ち上がって背伸びをして、部屋から出るために踵を返そうとした。
それと同時に、那月さんが寝返りを打つような衣擦れの音が聞こえたと思ったら、次の瞬間には俺の手に何かが触れた。
……いやこれは、俺の手が掴まれている。
俺は自分の手を見ると、那月さんが俺の手をしっかりと掴んでいた。
「なつ……!」
だけど那月さんを見ると、眠っている。
まさか無意識!? 俺は好きな人に手を握られたことにドキドキしていると……。
「やだ……いか、ないで……よ」
「っ!」
そんな、何かにすがりつくような、弱々しい寝言が聞こえた。
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