第26話 これを渡さないとって思って
夕食、そして引っ越しそばを食べ終え、俺が食器をシンクに持っていき、那月さんがそれを洗うといった分担作業をしている最中、俺はあることを思い出した。
そういえば、那月さんにアレ、渡してないじゃん!
なんで昨日のうちに気づいて渡さなかったんだろう……。那月さんがこの家に住む以上、どうしても渡しておかないといけないものだったのに。
「那月さん、ちょっと部屋にいってきます」
「はい。いってらっしゃい」
那月さんは笑顔でそう言ってくれた。毎回笑顔が可愛くて綺麗なんだよなこの人。
そんなことを思いながら俺は自分の部屋へ……。
今、この部屋には那月さんが昨日と今日、こっちで買ってきた私物が少しだけある。那月さんのベッドが届くまでは俺の部屋で寝てもらってるからな。
残りの大半はこの部屋の隣……那月さんが使うことになっている部屋にあるんだけど、それでも私物を不用意に見たりしないようにして、速やかに目的の物を持って戻らないと。
「えっと……確かこの辺にしまっといたはずなんだけど」
俺は自分の机の一番上の引き出しをの中をガサガサと物色する。
「お、あったあった!」
すると、奥の方に青色の小さい箱を見つけた。この中に入っているはずだ。
念の為に箱を開けて中を確認すると、ちゃんと入っていたので、引き出しを閉めて速やかに那月さんのいるリビングダイニングに戻る。
「あ、祐介くん。おかえりなさい」
「た、ただいまです……」
那月さんは変わらず食器を洗い続けていた。
それにしても、部屋に行ってただけなのに、なんで那月さんは笑顔で「いってらっしゃい」や「おかえりなさい」を言ってくれるのだろうか? いや、嬉しいけどね。
もしかして、これも元カレの影響……?
俺は那月さんの笑顔に照れながら、リビングにあるソファに腰掛けテレビを見ながら、洗い物が終わるのを待つ。
必要なものとはいえ、いざ渡すとなったら緊張するな……。
テレビを見ているけど緊張で内容が入ってこず、明らかにテレビの音量の方がデカいはずなのに、離れた所から聞こえる蛇口から水が流れる音と、那月さんが食器を洗うカチャカチャといった音の方が大きく聞こえる。
やがて水の音は止まった。那月さんが洗い物を終えたんだ。
いよいよこれを渡す時が来たと思うと、心臓がさらに大きな音を出している。
手が震えるし喉もカラカラになっていくけど……うん、渡すだけだ。臆するな俺。
「祐介くん。洗い物終わりましたよ」
「あ、ありがとうございます那月さん」
「どうしました祐介くん?」
「な、なにがですか?」
え? もしかして、これを渡そうとしているのがバレてるのか!? まぁ、それならそれでハードルが下がるんだけど……。
「なんだか日中に見た笑顔と違うと思いまして……もしかして疲れてますか?」
「……え?」
「私の買ったものを持ってくれたからですよね……ごめんなさい祐介くん! やっぱり私も持つべきでしたよね」
「ち、違います! 違うんです那月さん!」
「え?」
情けねえ……緊張して笑顔が固くなって、それで那月さんに『疲れたのは自分のせい』だと思わせてしまって、結果謝らせてしまうとは……。
無駄に緊張なんかせず、スマートに渡せてたら、那月さんが気に病むことはなかったのに。
今はそれを悔いても仕方がない。早くこれを渡すんだ!
「その、これを渡さないとって思って、それで緊張してただけなんです!」
俺はそばに置いてあった箱を少々乱暴に掴み、蓋を開けて那月さんに中身を見せた。
「これは、鍵……ですか?」
「はい。この家の鍵です」
那月さんが言ったように、この箱に入れていたのはこの家のスペアキー……合鍵だ。
「俺は明日から学校とバイトで日中はいませんし、その間は鍵がないと那月さんは外出出来ないでしょ? だからこの鍵を持っていてほしいんです」
これがないと、那月さんは俺がいない間はこの家から出ることが出来なくなる。……いやまあ、その時は俺の持っている鍵を那月さんに渡せば済むことだけど、もし不測の事態があったとして、俺の帰宅時間に那月さんが帰ってないと、その時は俺が家に入れないわけだし。
「…………」
那月さんは合鍵をじっと見つめている。目は普段より少し大きく開かれていて、口も半開きだ。
もしかして那月さん……こういうシチュエーションは初めてなのか?
元カレ達の家に住んでたって聞いてるけど、いくらその元カレどもが最低なヤツらだったとしても、その全てが那月さんに合鍵を渡さなかった、なんてこと……ないよな? ないと信じたい。
「……私が、預かって、いいんですか?」
少し時間を置いて、那月さんがそう言った。
気のせいかもしれないけど、声が少しだけ震えていたようにも聞こえた。
……さっきの俺の予想、当たってたのかもしれないな。
俺は箱から鍵を掴み、それを手のひらに乗せるようにして那月さんの前に出した。
「もちろんです。どうぞ遠慮なく受け取ってください」
俺は笑って、努めて明るい声で言った。
少しでも元カレどもの影が霞むように……。
すると、那月さんはゆっくりと手を伸ばして、俺の手のひらから鍵を掴んだ。
「ありがとうございます祐介くん。この鍵、大切に預からせてもらいますね」
「はい!」
那月さんは俺にとびきりの笑顔を見せてくれた。
そんな笑顔に今日一番ドキリとしたのは、俺だけしか知らないこと……。
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