第十八話 穢れた幻獣

 再び何かをずるずると引きずる音ような足音のような不気味な音が響く。

『浄化を、浄化を』

 繰り返し哀願する女性の声は高く低く。乞われても、寒さに震えるだけの私には何もできる訳がなかった。


 唐突に周囲が騒々しくなった。人が賑やかに笑う声や、陽気な話し声。うるさい程ではなく、飲食店の近隣なのだから仕方のない程度。それでも寒さは治まらず、怜慧レイケイの腕の中で震えが止まらない。

「……妙だな」

 ガラス窓がないせいで、外にいる何者かの姿が確認できないのは利点でもあり欠点でもある。木で作られた格子窓は、開けると外なので動かせなかった。


 木扉の反対側の壁が、ばきりと音を立てて割れた。見ればにやにやと笑う中年男がなたのような刃物で壁を壊している。

「まさか……人間?」

 刀を構える怜慧を前にしても、男の態度は変わらない。ただ笑いながら狂ったように木で作られた壁を壊す。遂には男が入ってこれるだけの大穴が開いた。


「入るな。何が目的だ?」

 黒色の着物姿の男は部屋の中には入ってこようとしない、鉈を持つ手は下がり、よだれを垂らして笑いながら立っている。それは不気味としか言えない姿で、あまりにも気持ち悪くて視線を下げた時に気が付いた。

「……!」

 男の足元には血だまり。黒色と思っていた着物は血で染まった色。そして男の背後には、夜の闇より黒い何かの影。


 その影は高さ二メートルの巨大な亀のシルエットで、うごめく縄状の何かが巻き付いている。歴史の教科書で見た壁画の記憶が蘇った。

「……玄武?」

「玄武? ……まさか、そんなことが……」

 蛇が巻き付く亀。その影は怜慧にも見えたらしい。一気に緊張が高まっていく。


 男の体が宙に浮いた途端、怜慧の左腕が私の目を隠しながら頭を抱え込む。

「見るな! 聞くな!」

 押し当てられた怜慧の胸の鼓動の向こうで、ぼきぼきと何かが折れる音を耳が拾った。

「……え?」

 音に集中してしまったことに後悔しかない。遠くかすかに聞こえるのは紛れもなく咀嚼音。何かを食べる音は続き、やがて静寂が訪れた。


 怜慧の腕の力が緩み、恐る恐る男がいた場所を見ると鉈だけが落ちていて血だまりも消えていた。玄武の影はまるで喜んでいるように体を揺らしている。

「た、食べた?」

「ああ。……ここで待っていてくれ」

 私はその場に座らされ、怜慧は独りで立ち上がる。

「何するの?」


「……俺はこの魔剣・灯華とうかを受け継いだ時、東我とうがに教えられた。……精霊や神獣、そして神も人を喰らうと正気を失う。人の血肉の味を忘れられなくなって次々と人を喰らうようになる。だから、出会ったら必ず殺せと」

「玄武を……殺せるの?」

 幻の神獣はこの世界では実体を持っていて。それでも殺せるものなのか疑問は尽きない。


「殺す。殺さなければ、多くの人が喰われる。……お前はこの結界の中にいれば安全だ。心配するな」

 怜慧が部屋を出ると、紫色の光が全身を包む。瞬きの後、怜慧の白い着物は狩衣と洋装を足して割ったような不思議な淡い紫色の装束へと変化した。


 玄武は後ずさり、庭で怜慧と対峙する。見ているだけの私は震える手を組んで、怜慧の無事をひたすら祈る。


 亀と蛇の融合体の動きは想像よりも早い。長く伸びた蛇の首と亀の巨体の挟み撃ちを怜慧が跳んで避けると、短い亀の尾の一撃が庭の岩を砕く。蛇の首に気を取られると、亀の巨体に攻撃される危険性は当事者でなくても怖い。


 怜慧はまるで踊るようなステップで攻撃を避け、何かを狙っている。避けるばかりの姿は心配で、強く手を握りしめて祈り続ける。


火焔輪かえんりん・発動せよ!」

 怜慧の叫びと同時に赤い炎が地面から天へと高く噴きあがった。怜慧は攻撃を避けながら、魔法陣を描いていた。

『ぎゃああああああ』

 炎に焼かれ、玄武はのたうち回る。北方を守護し冬を象徴する神獣は、火に弱いらしい。


『どうか浄化を! 穢れたまま死にたくない!』

 焼けていく玄武から発せられた男とも女ともつかない叫びが胸に響いた。怜慧は、剣を構え唇をかみしめながら炎と玄武を見つめている。


『我は騙された! 騙されて喰わされた! 助けてくれ!』

 暴れてまわっていた蛇の首が力を失って炎の中に消えた。もだえ苦しむ亀の首は天を仰ぎながら、助けを求めている。その姿はあまりにも可哀想で胸が痛い。


『我は人を喰いたくはなかった!』

 その絶叫が心をえぐる。怜慧に言われていたことも忘れ、私は裸足のまま庭へと駆け出した。


「怜慧、どうやったら浄化できるの?」

「お前! 自分に何が起きるかわからないのに、浄化の術を使うつもりなのか!」

「だって可哀想じゃない! 騙されたって言ってる!」

 涙があふれて心が苦しい。今、私に出来ることがあるなら。考えるのはただそれだけ。


「……わかった。俺の右手に手を重ねろ」

 刀を持つ手に右手を添えると、怜慧は私を背中から抱きしめた。

「今から、こいつを斬る。その間は浄化を願ってくれ」

 囁きに頷いて同意を示す。何をしようとしているのかわからなくても、信じようと思った。


 振り上げた刀は紫の炎を上げる。玄武の浄化をしたいと願うと、白い光が炎を包む。白い光をまとう紫の炎は幻想的で美しく、夜空すら照らす輝き。


 赤い炎の中、亀の足は力を失い、胴体が地面に音を立てて崩れ落ちる。もう残された時間はわずかなのは明白。早くと心が焦るのに、怜慧は刀を振り下ろそうとしない。

「怜慧! 早く!」

 私の懇願で、怜慧は刀を振り下ろした。刃は炎に包まれた亀の甲に吸い込まれ、そこから白い光が雷のように走っていく。


「浄化をお願いします。穢れが綺麗になりますように」

 白い光は燃え盛る赤い炎も玄武の体も包み込む。黒い影でしかなかった玄武の体が色彩を取り戻し、やがて炎の中で炭になり粉々になってしまった。


「怜慧……」

「まだだ。最後まで浄化を願ってくれ」

 さらに浄化を願うと粉になった炭が白く光って消えていく。炎は小さくなって、玄武を囲んでいた魔法陣も消え去った。


 夜の庭は静寂を取り戻し、破壊された岩や植え込みも元に戻っていた。遠くから人々の賑やかな声が風に乗って流れてくる。


「完了だ」

「浄化できた?」

「ああ。完全に浄化できたが、俺はお前に言いたいことがある」

 口を引き結んだ怜慧の拗ねた顔が可愛いと思いながら、私は満足感で目を閉じた。


      ◆


 目が覚めると几帳に囲まれた布団の中にいた。起き上がると、昨日泊まった宿の部屋。外では怜慧が誰かと話す声が聞こえる。


「昨夜遅く、鉈を持った男が扉を壊して部屋に侵入しようとしていた。身構えていたら、その男は獣のような何かに連れ去られた」

「それはそれは災難でございました。その男は昨夜、鉈で人を三人殺して逃げる途中でして」

 あの男性は賭場で負けが続き、借金でどうしようもなくなってしまったらしい。そんな事情を聴いても人を殺して良い理由があるとは思えなかった。


「お客様がご無事で何よりでございます」

「扉の修繕費を払おう」

「いえいえ、とんでもございません。修繕費は不要でございます。ただ……男が訪ねてきたことは、どうかご内密にとお願いに参ったのでございます」

「……わかった。内密にしよう」

「ありがとうございます。……お連れ様がお目覚めになられましたら、ご遠慮なくお知らせください。すぐにお食事をお持ち致しますし、ご入浴の準備も致します」


 几帳越しの声だけでも、宿の人の平身低頭ぶりが伝わってくる。理由がさっぱりわからなくて首をひねっていると、几帳がめくられて怜慧が顔を覗かせた。


「起きたか」

「あ、怜慧、おはよー」

 いつものように返すと怜慧はがくりと肩を落として溜息を吐いた。


「……お前……俺がどれだけ……」

「えーっと……心配掛けてごめんなさい。……内密ってどうして?」

「ああ、聞いていたのか。要するに宿の評判を落としたくないってことだろ。ここは貴族も利用することがあるからな。簡単に殺人犯に侵入されたなんて広まったら評判は地に落ちる」


「殺人……玄武のせいかな?」

「いや。逆だな。あの男は殺人をして穢れていたから、玄武が操ることができた。……平気か?」

「平気じゃない。思い出しちゃった」

 自分で話題にしておきながら、あの咀嚼音を思い出すと背筋が寒くなる。


「でも、怜慧がかばってくれて見なくて済んだから大丈夫。忘れるよう努力する」

「そうだな。その方がいい」

 直接見ていたら、こうして笑うこともできなかったかもしれない。怜慧には感謝感謝。


「とりあえずは朝飯だな。腹減った」

「ちょ。もう少しカッコイイ言い方できない?」

「王宮言葉は忘れたな」

 肩をすくめた怜慧は、明るい笑顔を見せた。


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