12 共用面会室で

 東向きの窓側に四人掛けの机と椅子が三セット設えられている。共用面会室の菱形の窓を通し、ぼくは、みなみ・まなつ、の姿を確認する。まなつ、は、きれいな女性と戯れている。女性は若くは見えないが、しかしそれほど歳をとっているわけでもない。まなつ、は左手に何かを抱えているようだが、こちらからはそれを確認することができない。まなつ、は女性からコインを数枚受け取ると、ぼくの覗く方から見て向かって右側の壁に設置された自動販売機のところに走っていく。そのときチラとこちらを見たが、ぼくに気がついた様子はない。

 ついでぼくは大きく息を吸い、吐いてから、ガラガラガラと大きな音を立てて面会室の引き戸を開ける。その音に、さっきの女性が振り返る。ぼくを確認し、会釈を向ける。ぼくも女性に会釈を返す。面会室のぐるりには、ぼくを含めて三人の人間しかいない。ぼく、女性、まなつ、の三人だ。ぼくは、まなつ、の姿だけを凝視する。その視線におそらく気づいたのだろう、まなつ、がこちらを振り返る。その瞬間、ぼくは仰天してしまう。なぜなら、まなつ、が二人に分かれたからだ。

 そのうちの一人が、ぼくの姿を確認し、

「あれ、だれだっけ? ええと、こうじ、おにいちゃん?」

 と叫ぶ。悪魔のようにおぞましい声音だ。きゃらきゃらと笑いながら、ぼくの方に近づいてくる。ぼくが怖気を震う。

(こ、こらっ、こっちに来るな!)

 ぼくがじりじりと後退る。けれども、そこで思い返す。まなつ、は、やはり人間ではないのだ。二つに分かれたのが、その何よりの証拠ではないか。彼女が操り主なのだ。ならば排除しなければならない。藤原早紀を救うために。 ぼくが早紀のために、ぼくにできることをするために……。

(よし、戦ってやる!)

 ようやく、ぼくが決心する。

(来るなら来てみろ! 負けやしないぞ!)

 するとそのとき、まなつ、が、先ほどまで戯れていた女性に声をかける。

「おかーさん、あのひと、さっき、したで、あった、おにーちゃん、だよ」

(えっ?)

 ぼくが不意を突かれる。まなつ、は、朱音さんの子供じゃないのか? ついで、ふいに悟る。そうだ、間違いない。まなつ、が、操り主なのだ。これが、その二つ目の証拠なのだ。

 ぼくは勝ち誇った笑い声を上げている。何故なら、まなつ、に関するもうひとつの事実が明らかになったからだ。おそらく二度口を利いた、まなつ、の方は影武者だ。本物の操り主であるところの、まなつ、は黙っている方に違いない!

 ぼくは自分が本物だと見破った、まなつ、に向けて突進し、腕を掴んでグイと引っ張る。すると触った感触が信じられないくらい堅い。しかも表面がテラテラと光っている。これは断じて生身の人間ではない。ついでぼくは驚きの表情を浮かべる影武者の、まなつ、を突き飛ばす。本物の、まなつ、の方は両腕を両掌で圧し潰す。

 すると――

「あなた、何をするんです! まなつの××を離しなさい!」

 さっきの女性が大声でぼくに叫んでいる。もちろん、ぼくは聞く耳を持たない。当たり前だ! おまえだって、あいつに騙されているんだぞ! ついで出し得る限りの力を込め、まなつ、の両腕を締め上げる。ポキリ。そんな乾いた音を立て、両腕が折れる。まなつ、の叫び声が聞こえてくる。さあ、次は首だ。息の根を止めてやる! ぼくは抵抗がなくなった、まなつ、の細い首を絞め上げる。程なく、まなつ、の頚骨が折れる独特の感覚が脳まで届く。雀を握り潰すような感触だ。ポキッではなく、グシャでもなく、言葉に上手くいい表せない色彩の乱れ飛ぶ濡れた木綿の布地を握り締めるときのような、あるいは骨の入っていない中途半端に萎えた見知らぬ男のシンボルを嬉々として握り潰し破裂させ、飛沫がぐるりに飛び散るときのような感覚がして……。

 ついでその首をグルグルとまわし、頭を胴体から引っこ抜く。たちまち辺りに血が飛び散る。周囲が真っ赤に染め上がる。まるで今朝見た、あの朝焼けの色みたいに!

 ぼくは、まなつ、の頭を踏みつける。何度も、何度も踏みつける。何度も、何度も踏みつける。何度も、何度も踏みつける。何度も、何度も踏みつける。何度も、何度も踏みつける。何度も、何度も踏みつける。やがてグシャッという音がして、まなつ、の頭蓋骨が割れ、砕け、はみ出した脳がグニュッと潰れる。さらに、ぼくの足に踏まれ、脳髄が弾け飛ぶ。脳梁が崩れ、切れ、バラバラになり、辺りに散る。

 そのとき――

 パッチリと限界まで見開かれた黒くて大きな、まなつ、の眼がぼくを見つめ返す。その瞳の中に、ぼくが映っている。だが、それはぼくではない。少なくとも今までのぼくが知る、ぼくに親しいぼくではない。それは凍りついた目をしている。それは美しい怜悧さを湛えている。

 背後からバタバタという足音が聞こえてくる。顔のない人間たちが数名、共用面会室に入ってくる。

「早く取り押さえろ!」

 その中のひとりが叫ぶ。他の者たちは一斉に、ぼく目がけて迫ってくる。

「仲間なんだな。操り主の……。ぼくにはわかっているぞ!」

 ぼくが叫ぶ。そいつらを見やる。そいつらの中に注射器を持ったやつがいる。あれは鎮静剤だ! いつの記憶だろう? あれを打たれたことがある。いつのことだろう? あれを打たれたことがある。あれは、いつの出来事なのだろう? 早く逃げなければ……。

 ぼくは共用面会室の自分が入ってきた方とは別の引き戸を素早く開けると十五階の廊下に脱出する。パーフェクト・タイミングでエレベーターの扉が開く。中にいた老婆の腕をぐいと引っ張り、外に引きずり出す。ついで『R』『閉』のボタンを続けて押す。扉が閉まりきる刹那、エレベーター扉の直前まで迫っていたやつらのひとりの腹を蹴る。そいつが、「うっ」と呻き、蹲るのを垣間見る。エレベーターの扉が完全に閉まる。エレベーターが屋上に着くまでのジリジリした時間がぼくに流れる。やがて扉が開く。追っ手はまだ到着していない。今回は開錠されていた出入口から屋上に出る。空気を吸う。現実だ。これが現実の空気なんだ。

 それを超え、ぼくはさらに外に出て行かねばならない!

 ぼくが屋上の向こう側まで全速力で走り切る。病院屋上の周囲を囲ったフェンスに飛びつき、攀じ登る。

「やめろ!」

「よせっ!」

「はやまるな!」

 背後から、やつらが口々にそう叫ぶ声が聞こえる。段々とその声が近づいてくる。焦って手が滑り、上手く昇れない。ぼくと追っ手との距離がゼロになる。精一杯抗い、、どうにかフェンスの上に身を乗せる。その上に立ち上がろうと奮闘する。下は見ない。ぼくは落ちるのではない。ぼくは飛翔するのだ。現実を超えた超現実の世界へと……。

 するとプツリ、脹脛に痛みが走る。ぼくの足許から伸び上がった誰かの手が注射針を穿ったのだ。途端にすうっと意識が遠退いていく。その後の薄ぼんやりした視覚で背後を振り返ると……あれっ、あそこにいるのは朱音さんじゃないか? 真っ蒼な顔をして立っている。朱音さん、助けて……。ぼくを助けて……。このまま気を失ってしまったら、ぼくはぼくじゃないものになってしまう。ぼくが、このぼくから追い出されてしまう。ぼくが毀れていなくなってしまう。お願いだ、朱音さん、ぼくを助けて!

 けれども、もうダメだ! 手遅れだ。間に合わない。ぼくは負ける。ぼくは負けてしまう。ぼくは負けてしまうんだ!

 だが跳ぶぞ!

 そう思った次の瞬間、ぼくの頭の中を真っ白いカーテンが音も立てずに駆け抜けていく。

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