10 階段で

 二人とも、それからしばらく放心状態となる。早紀の顔には、ことを終えてしばらくの間、笑みが浮かんでいるが、やがて我に返ったようにぼくの顔をしげしげと見つめ、また悲しみの中に沈んでいく。

 ぼくが彼女を助けられた時間は、ほんの一瞬らしい。

「わたし、もう行くわ」

 不意に時間が流れ、ぼくの前には乱れなく服を纏った早紀がいる。

「……」

「付き合ってくれて、ありがとう。また来るね」

 それだけ言うと立ち上がり、服の埃を払い、早紀が足早に病室を立ち去る。立ち去る早紀の残り香には、ついさっき感じた、とろけるような感触がまるで感じられない。それは今にも燃え尽きてしまいそうなロウソクの香りに近い。

 ぼくは、またしても考え込んでしまう。

 あの一瞬の陶酔時を除けば早紀はまったく不幸そうに見える。早紀を不幸にしているのは誰なのだろう? ぼくのいちばん大切な人を……。考えるまでもない。それは、みなみ・まなつ、だ。あるいは、まなつ、を操っている誰か! そうだ、ぼくはさっき、それを排除しに行こうとしていたのだ。そこに早紀が現れ、ぼくは彼女のナイトとして、あるいはシュヴァリエとしての義務感から、彼女を一時的にでも幸福にする行為に及んだのだ。けれども、それは対応療法に過ぎない。根本的な問題の解決になっていない。

 ぼくは意を決し、今度こそ、みなみ・まなつ、を探索に出かける。午前七時半の朝食までには、まだ時間がある。三人のナースがナースステーションに陣取っているのは先程確認済み。だから彼女たちに見つからないように廊下奥の非常階段を使い、十一階から抜け出すことにする。ヒョウのように迅速にフクロウのように用心深く……。

 バタン パタン

 できるだけ音を立てないように非常扉を開け、かつ閉める。踊場に立ち、階段の上下を交互に見やりながら、

(さて、どちらに行けばいいだろうか?)

 と逡巡する。けれども悩んだときには解決策がある。ぼくはガウンのポケットからコインを一枚取り出し、それを親指が上になるように握り拳の形に折り曲げた右手の人差指の第二関節の上に載せ、親指で下から勢いよく弾く。表が出れば階上へ、裏が出たら階下へ降りると決めている。いったん宙に上がり、やがて重力の法則に従い落下してくるコインを左手の甲で受け止める。コインを落とさないように右手の掌を素早く被せる。コインの表裏を確認すると表。だから躊躇なく、ぼくは階上に向かう。

 踊場を三回通り過ぎるところで、上から誰かが降りてくる。見上げると加藤芹香だ。

「あら、ナンパが下手な菅谷さーん!」

 ぼくの姿を確認して芹香が言う。

「また、お会いしましたね」

 とぼくに挨拶し、芹香がにっこりと笑顔を浮かべる。

「だからあ、あれはナンパではないんですよ」

 ぼくが芹香に返答する。まったく迷惑な話だ。ぼくが彼女にナンパなんかするわけがないだろう。

 しかし――

 本当にそうだろうか?

 あのとき、ぼくはナンパをしようとしていたのではないか?

 でも、どうして? 何故?

 それは芹香が清らかで髪がストレートで長く、その髪に大きなリボンをつけ、それが知り合いの加藤小百合にそっくりで、背が低く、腰が細く、女の子らしいサンダルを履き、その先に覗いた足首が繊細で、端的にいえば彼女が可愛らしかったから。だから、ぼくは芹香をナンパしようとしたのだろうか? いいや、断じてそんなことはない。ぼくの心は藤原早紀に捧げられている。彼女以外の女性に、しかも自分よりも年下の女の子に、ぼくの心が惹かれるわけがない。だとすると仮にぼくが芹香を可愛らしいと感じたとすれば、ぼくは誰かに心を操られていたことになる。それは一桁の足し算のように簡単な推理だ。

 しかし本当にそうなのか?

「いやだあ、わたしの身体に何かついていますか?」

 芹香が柔らかなアルトの声で糾弾する。その声にぼくははっとし、思考の檻から抜け出ている。

「えっ?」

 芹香にそう指摘されると確かにぼくの視線は芹香の身体を嘗めまわしている。マズイ! ぼくはもう誰かに操られているのだろうか?

「ところできみは何処に向かっているの?」

 しかし、ぼくの口から発せられたのはそんな問いかけだ。

「九階の自動販売機にしか売ってない飲み物を買いに行く途中でーす」

 大きな目をクリクリとさせながら彼女が答え、ついでぼくに問いかける。

「それで菅谷さんの方はどちらへ?」

「操り主の正体を確かめるため、ある人物を探しに……」

「あやつりぬし?」

「うん。そう」

 ぼくが答える。

「えーと、マリオネットってあるじゃない? あの、糸で操られている操り人形。当然それには人形を操る人がいるよね。マリオネットを動かすための……。それが特定の人間にもいるんだよ」

 ぼくは何をしゃべっているのだろうか?

「そう思ったことはない?」

「……?」

 芹香は首を傾げている。その瞳の中に少しだけ不安の色が現れる。ぼくは芹香に一歩近づき、同時に芹香が一歩ぼくから遠ざかる。ぼくが芹香から一歩離れても芹香はさらに一歩ぼくから遠ざかる。

 すると、ぼくの心の中にある確信が芽生え始める。もしかしてコイツなのか? ぼくを操り、みなみ・まなつ、を操っている張本人=操り主は加藤芹香? ぼくの発した予期せぬ言葉にその心中を読まれ、芹香は不安の色を覗かせたのではないか? だから、ぼくから遠ざかろうとするのではないか?

 すると――

「何もかも上手くいかないで落ち込んでいるときには、そんなふうに考えることもないとはいえないけど……」

 不意に芹香が先程のぼくの質問に答える。

「でもそれって、やっぱり考え過ぎだと思いまーす」

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