8 再度、屋上を示す記号はR
「暑くなる前に部屋に戻ろうか?」
病院の屋上で初めて救われたような気分を味わった後、朱音さんがそう誘う。時刻はまだ午前六時にもならない。だが熱気は辺りに押し寄せている。ある程度の距離を歩いたなら全身汗ばんでしまいそうな予感がする。
屋上に出たときと逆の手順で窓枠を乗り越え、エレベーターまで戻る。
「そういえば……」
「なんだ?」
「ぼくが来たときには、すでに窓が開錠してあったんです」
「それで?」
「だから誰が開けたのかと思って」
「さあてね。ワタシにもそれは見当がつかないよ」
そんな会話をしながら一緒にエレベーターに乗り、十一階で降りる。
「部屋まで送ってくよ」
朱音さんがいい、
「あ、はい……」
素直にぼくが同意する。
ナースステーションには三人のナースが詰めている。三人とも見慣れた顔だ。体つきは細いが言葉使いがきついオバサンと、丸々と太って脂肪だらけのように見えるが腕力に長けるオバサンと、体型は標準形だがいつも疲弊した感じを漂わせているオバサンだ。全員が四十過ぎに見える。
ぼくと朱音さんの姿を確認するとオバサンたちの表情に一瞬緊張の色が走るが、
「ハイハイ、みなさん、おはようさん」
朱音さんのそんな挨拶の間に、その表情が確認できなくなる。おそらく、それは日常のペルソナの中に埋れていったのだろう。
病室に入り、腰かけても、朱音さんはまだ部屋を出て行こうとしない。……といっても、彼女の存在が疎ましいわけではない。どちらかといえば朱音さんがいない場合、その不在感の方が疎ましいだろうと感じられる。
手持ち無沙汰に傍机の抽斗を開けるとノートが見つかる。一番上の食具が仕舞われた抽斗ではなく、その下の二段目からだ。開くと人物のスケッチ画が描かれている。わりと上手い。種々の表情を浮かべた明らかに朱音さんとわかる女性がいて、おそらく藤原早紀と思われる女性がいて、ぼくの知らない何人かの女性たちがいる。その中には、もしかしたら加藤芹香や、みなみ・まなつ……だろうと思われる姿もある。ぼくは何故か胸が悪くなるのを感じる。
そのとき――
「ところでさ?」
不意を襲われた感じで朱音さんに問いかけられる。
「何で、きみは屋上にいたんだ?」
「……」
「いや、答えたくなんなら、答えなくていいが……」
朱音さんはそう付け加えるが、
「悪意が」
ぼくの口からはそんな言葉が漏れ出ている。
「見えたと思えたのは幻覚かもしれません。でも、ぼくはある少女に宿る悪意を見た気がしたんです。それで……」
と、そこまで言ってから、
(マズイぞ。まなつちゃんは朱音さんの子供なんだ!)
ぼくははっと思い至る。しかしすぐさま疑問を抱く。
(でも、どうして彼女の子供がぼくに悪意を抱くんだ。ぼくに対する悪意を、ぼくをバケモノに変えてしまうような悪意を……。わからない?)
「ほお、それで」
当然のように朱音さんが、ぼくが口にした内容について問いかける。
「いえ、違うんです」
ぼくは慌てて返答し、どうにか話題を変えようとする。
「エレベーターで屋上を示すRって記号はどんな意味ですか?」
思わずそんなことを口走る。それに答えて朱音さんが言う。
「R? ああ、普通はroof(屋根)の意味だけど、ビルによってはRescue(救助)の場合もあるかな?」
「えっ、Rescueですか?」
「ああ、軽飛行機やヘリコプターを使って街を空撮した写真とか映像とかがあるじゃないか。そこで見たことないかな? 屋上にHとかRとか大きく描かれているビルを?」
「はい、あります」
「Hは普通にHeliportで、RはRescue。訳語でいうとHが『屋上緊急離発着場』でRが『緊急救助用スペース』」
「ふうん、物知りなんですね」
「偶々だよ」
朱音さんの博識のおかげで、ぼくは難を逃れたようだ
「おっと、もう、こんな時間か!」
部屋の丸い掛け時計を見、急に気づいたのか、朱音さんが大声で叫ぶ。
「じゃ、後でまた来るから……」
そう言い残し、素早くぼくの病室を去る。去り際に白衣の胸ポケットが目に入るが、そこにネームプレートが付いていない。
朱音さんが去ると、ぼくは彼女の残した言葉について考え込む。
屋上が現実で、さらには避難場所だなんて、都合よく出来過ぎているじゃないか? そう思えたのだ。……とすると、それは陰謀なのかもしれない。
誰の?
もちろん、みなみ・まなつ、のだ。
もしそれが事実なら、ぼくは彼女を毀さなければならない。朱音さんには申し訳ないが、ぼくが自分で身を守る方法はそれしかないように思える。
けれども仮に、まなつ、も実は誰かに操られているとしたらどうなるだろう?
その場合、ぼくは上位の操り主に操られ、無垢な、まなつ、を殺してしまうことになる?
あああああ……
わからない。ぼくには、わからない。操り主の意図がわからない。
果たしてぼくにそれを知る方法はあるのだろうか?
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