7 屋上を示す記号はR

 少女の、まなつの姿を求め、ぼくは病院内を転々とする。一階の内科、外科、整形外科、眼科、耳鼻咽喉科、それぞれの待合、採血ルームなどを覗いてみる。だが、まなつの姿は何処にもない。それから階段を下り、地階のレントゲン室や放射線関連の医療施設、そこからエレベーターで二階に上がり、腹部エコー関連の施設を彷徨うが、やはりまなつの姿は確認できない。

 彼女は幻なのだろうか?

 穢れたぼくの心が見せた聖天使への憧れと黒天使への期待としての。

 彼女は幻なのだろうか?

 藤原早紀に対するぼくの淡い想いと哀れな自己卑下が呼び覚す。

 彼女は幻なのだろうか?

 心の弱いぼくと、それを打ち破ろうと足掻く別人への焦がれを支えるための

 ぼくは行き場を失い、院内をさまよう度に利用したエレベーターに戻り、屋上を示すRのボタンを押す。その文字Rが、また現実を表すRealityの頭文字であることにふと気づく。

 現実か?

 屋上が現実で、病院内が夢なのか? それも悪夢。ぼくを責め苛む。あるいはぼくの心を自由にする。

 仮にこの病院の屋上が現実だとしたら、その先に広がる世界はいったい何だろう? 現実を超えた現実。超現実。surréel。そこでは存在のすべてが赤裸々に解体され、順番を入れ変えられ再構成され、最後には無へと帰してゆく。いや、そうではないか? 無ではなく無意識に還っていくのだ。理性に拘泥されない真に自由な世界へと。

 自分より弱い者を襲ってはいけないとヒトにいわせるのはヒトの理性だ。無意識には、そんな躊躇はない。

 自分より美しいものを――手の届かないものを――愛してはいけないとヒトに教えるのはヒトの理性だ。無意識には、そんな主張はない。

 無意識の――超現実の世界でならば――ぼくは藤原早紀を、彼女を含めたすべての女性を愛せるのだろうか? 

 愛?

 愛だって?

 お前が求めているのは、そんなきれいごとなのか?

 お前が求めているのは、彼女たちの肢体じゃないのか?

 お前が求めているのは、お前に支配されて喘いでいる彼女たちの姿じゃないのか?

 ビーッ

 エレベーターが屋上に到着し、扉がゆるゆると開かれる。ぼくもゆるゆるとエレベーターから降り、廊下に出る。ただし、そこはまだ屋上じゃない。さらに通路奥の出入口の外に出なければ屋上ではない。

 だから――

 ガチャ

 ぼくは出入口のノブをまわす。

 ガチャ ガチャ ガチャ

 当然のように出入口には鍵が掛かっている。ぼくはここでも拒絶される。けれども打つ手がないわけではない。窓ガラスの錠を外してそこから外に出ればよい。ただ、それだけのこと。

 そう思い錠を確認すると、それは既に開かれている。……ということは、ぼくより前に誰かが屋上に立ち入ったということか?

 好奇心に駆られ、ぼくはガラス窓を開け放つ。そこから身を乗り出し、窓枠を乗り越え、病院の屋上にすっくと立つ。

 ぐるりを見まわすが人の姿は見当たらない。

 おかしいな? 単なる管理人の鍵の掛け忘れか?

 そう思い、さらに周囲を見渡していると匂いがする。何ともいえない神々しい匂い。その匂いの元を求めてぼくが鼻を向けた先が給水タンク。つい先ほど、ぼくが窓枠から抜け出たエレベーター最上階Rが設置される屋上建造物の上にそれがある。その近くには異様な人影が……。

 それは大きく羽根を拡げた天使。その全身の純白の中に無限の色がたゆとうている。その色から、ぼくの鼻を擽る不思議な匂いが発散されている。

 だから、ぼくは放心してしまう。

 天使の存在する現実がぼくの現実ならば、ぼくはそれを受け入れることができるだろう。ぼくはそこで赦されるだろう。ぼくはそこでこそ癒されるだろう。そこにはぼくの居場所があるだろう。

 すると――

「なんだ、こんなところにいたのか?」

 朱音さんの声がする。給水塔から視点を下げると窓ガラスの枠に肘を凭れ、ぼくを見やる朱音さんがいる。

「あかねさん、天使が……」

「あかねさん?」

 そう呟き、朱音さんは不審な表情を浮かべる。

 ついで――

「で、天使ぃー?」

 朱音さんのそんな口調にぼくが再度給水タンクを見上げると、そこにもう天使はいない。天使どころか何もいない。匂いさえ残っていない。

 ぼくはさっきとは違った意味で放心する。「まったく仕方がないな。よっこらしょっと……」

 朱音さんが窓枠を乗り越え、ぼくのところまでやってくる。両掌でぼくの肩を後ろから掴み、

「いい朝だな。何処までも晴れていて」

 そんなことを言うものだから、ぼくも彼女の視線の先を追い、青空を見つめる。首をまわし、ぐるりを見渡す。確かに雲ひとつなく澄み切った空が見渡す限りに広がっている。

「そうですね」

 だから朱音さんにぼくが答える。しばらくしてから、

「で、いたのかい? そこに、天使が……」

 朱音さんが尋ねるので、

「いえ、太陽のまぶしさに当てられただけかもしれません」

 深く考えもせずにぼくが答える。

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