6 再度、エントランスホールで

「おにーちゃん、どうしたの?」

 病院一階のエントランスホールに呆然と立ち尽くすぼくに声を掛けてきた者がある。

「悲しいの? 泣いてるの?」

 顔を上げて、さらに下を向いて確認すると、真っ白な服を着た少女がいる。三、四歳くらいだろうか? 髪はおかっぱで、両目はアナログ時計の八時二十分の角度で垂れ下がっていて鼻がツンとわずかに上を向いている。半袖のワンピースからのぞいた雪のように白い腕と脚がひょろりと長い。足にはアニメのキャラクターが描かれたシューズを履いている。もちろん胸はぺったんこだ。その少女が見せた表情には、ぼくへの気遣いが感じられる。なので、ぼくは何とか気持を取り繕って明るく振舞おうと決心する。純真無垢な少女をぼくの悪夢世界へ引き摺り込んではならない。心に強くそう感じたのだ。

 ぼくが少女の腕を締め上げれば、それはポキリと折れるかもしれない。ぼくが少女の頭を床に叩きつければ、それはぐしゃりと潰れるかもしれない。ぼくが少女に滾り立ったものを咥えさせれば、その咽は裂かれるかもしれない。その滾り立ったものを少女の秘所で爆発させれば、少女のすべては破壊されるかもしれない。沸き立ち泡立って白濁したぼくの闇の白に塗れながら……

 そんなことをしてはならない。そんなことは絶対に許されない。

 弱いものがより弱いものを陵辱する。それは現代のイジメ構造だ。強いものには歯向かうことができず、同じような力のものには精神で負けて卑屈になり、自分より弱いもの、より弱いもの、さらに弱いものしか、襲えないし、愛せない。けれども、虫を殺しても、鳥を殺しても、猫を殺しても、犬を殺しても、つまらない。心の飢えは埋まらない。心の空白は埋まらない。だからその心は闇のバケモノとなって少女の身体を蹂躙し……

 ぼくは首を振ってその考えを脳の彼方に押しやろうとする。膝を曲げて腰を下ろし、目線を少女と同じにする。

 そして――

「ありがとう。やさしいんだね」

 と少女に告げている。

「もう、だいじょうぶだよ。きみのおかげだ」

 と付け加える。

 すると――

「わたしの……」

 と少女が問いかけてくるものだから、

「そう、きみのおかげだ」

 と明るく、ぼくが断言する。

 その言葉を聞いて少女が再度にっこりと微笑む。ぼくも、まあるく微笑みを返す。優しくて神聖な時間が流れている。まだ熟す前の青過ぎる香りが、ぼくの鼻腔に香っている。

「ねえ、きみ、なまえはなんていうの?」

 尋ねてから不意に芹香との会話を思い出し、慌ててぼくが付け加える。

「ああ、ぼくはね、すがや・こうじ、っていうんだ」

「ふうん、こうじ、おにいちゃん」

「そう、こうじ、おにいちゃん」

「ふふふ……」

 少女が笑う。

「わたしはね、まなつ。みなみ・まなつ」

「ふうん、みなみ・まなつ、ちゃん?」

「うん、そう」

「あの、じゃあ、もしかして、ひょっとして……」

 ぼくは感じた疑問そのままを、まなつと名乗る少女にぶつける。

「まなつちゃんの、おかあさんのなまえは、なんていうの?」

「おかーさん?」

「そう、おかあさんのなまえ?」

「えーとね、しらない。おかあさんは、おかあさん、だよ」

「うん、そうだよね。まなつちゃんのおかあさんは、おかあさんだね」

「うん、そう」

「じゃあ、まなつちゃんの、おとうさんは、おかあさんのことを、なんてよぶの?」

「うーん、おとうさんは、おかあさんのこと、ときどき、おい、あかね、ってよぶ」

「じゃあさ、その、あかね、っていうの、おかあさんのことじゃないの?」

「うーん、そうかも?」

 といって首を傾げる。それから不意に――

「まなつの、おかーさんは、あかね!」

 そう叫んで白い歯を見せて、きゃらきゃらと笑う。ぼくも釣られて笑顔になる。

 そうか、この子は、まなつちゃんは、朱音さんの子供なのか? 雰囲気はずいぶん違うけれど、朱音さんからあの化粧を取れば、もしかしたらこの顔が現れるのかもしれない。そう思うとなんだか楽しくなってくる。

 が、そのとき――

 ふと見た少女の顔に悪意が浮かぶ。

 それは形のある悪意。実体を伴う悪意。少女の肉体という紛れもない現実のイキモノに宿った真っ白な悪意。いうなれば純真無垢の罪の意識のない悪意。無意識に蚊を潰すような、気がつかずにアリを踏み殺すような悪意。

 その悪意には罪の意識がないので反省など思いつかない。後悔などまったく知らない。苦悔/苦恨に生涯苦しみ続けさせられることもない。まさにそれはガラスの悪意。透明な悪意。ぼくのあの悪夢の中で名も知れぬ少女を陵辱し続ける、そのままの悪意。己の生贄が上げる悲鳴に無限の色彩を溶け込ませるような悪意。

 ぼくは畏れ戦く。けれどももう一度、ぼくは少女の顔を見なければならない、そんな義務感にぼくは駆られている。何故なのだろう? 操られているのだろうか? ぼくが悪夢の中でバケモノになったのは、もしかしたらぼくの意識に上った、あるいは識域下の穢れた欲望のせいなんかじゃなくて、誰かの――まさか、この少女の――意思に操られてのことだったんじゃないのだろうか?

 あああああ……

 わからない。ぼくにはわからない。何にもわからない。

 ああああ……

 次の瞬間、ぼくは目を開けて少女を探し求める。

 が、少女の姿はエントランスホールの何処にも見当たらない。

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