5 エントランスホールで

 無人でシャッターが閉まった受付のカウンターを通り過ぎると椅子の大群が陣取っている。椅子、椅子、椅子。まったく同じ色と形をした椅子たちが整然と列をなし、辺りを無言で威圧する。病院ではよくある光景だが、人の姿が消去されると、かなり不気味に見えてくる。椅子の最後列と病院のエントランスまでの距離は約十メートル。その間の空間がエントランスホールになっており、そこが悪夢の場所のはず。

 だが今、その場所に悪夢の痕跡はない。

 エントランス自体が東向きなので既に陽は射し込んでいるが、そこにはぼくが悪夢で観たような闇の光の爆発はない。それに色彩の幻想もない。ただ人がいないだけで、そこは通常の空間=日常世界の外延でしかない。

 では像の方はどうだろうか?

 ぼくは目を凝らし、病院のガラス壁の外に立つ、台座を入れると高さ三メートル以上もありそうな人型の像を見やる。像の台座に奇妙な色の蠢きはない。けれども光の反射が煌いている。そのゆらぎがちょっと不思議に思えたので、ぼくは気になり、この時間にはまだ鍵が掛けられているはずの幅広のエントランスに近づいて行く。

 すると――

「菅谷くん?」

 ふいに誰かに呼び止められる。声がしたのは、ぼくが歩いてきたのとは反対側の通路からだ。その方向を振り向いてぎょっとする。そこにいたのが藤原早紀だったからだ。

「藤原さん?」

 反射的にぼくは彼女に声を掛ける。だが頭の中は疑問符だらけだ。どうして早紀がここにいる? 彼女はどこか病気なのだろうか? どうしてぼくと同じ病院に? 疑問がいつまでもグルグルとまわる。やがて放心したぼくの方へ早紀がゆっくりと近づいてくる。その華やかで清楚な姿に、ぼくは急に恐れをなす。藤原早紀は美し過ぎる。百七十五センチに近い身長。スラリと伸びた長い足。わずかに吊り上った両眼。キリリと引き締まった口許。細くてしなやかな首筋。豊満でこそないが、それなりのボリュームが感じられる両胸。まるでマネキン人形のように全体的に均整の取れた肢体。彼女はぼくの憧れの人。あのときの事故よりもずっと以前から、ぼくは彼女の崇拝者のはずなのだ。

 子供の頃の好きという感情は単純だ。ただ一緒にいたいと思うだけ。偶然、ぼくたちは互いにすぐ近くの家に住み、偶然、家族ぐるみの付き合いがあり、偶然、幼かった早紀とぼくが仲良くなる。そんないくつもの偶然のおかげで、ぼくは彼女の崇拝者となる資格を得る。でも、ダメだ、ダメだ、ダメだ。それ以上は近づけない。学校での会話なんかは普通にできるのだけれど、生涯このときまで、きみが好きだなどとただの一度も口にしたことはない。どうあってもその愛の囁きは発せられない。

 何故なら、ぼくには彼女みたいな美しさもなければ、機知に優れることも、理知に長けることも、艶やかな肉体や躍動的な運動能力を有することも、その他、何ひとつなかったからだ。他人に秀でるところがひとつもない。だから、ぼくには自分に対する引け目しか感じられない。彼女の前に立つことさえ許されないような畏れがある。

 おまけに長じてからのぼくは人と話すのがとても苦痛だ。相手に無視されるのが怖くて気の利いたことを言おうと逡巡しているうちに会話を続ける最良の機会を逃がしてしまうのだ。その先は大抵、気まずい沈黙が支配する。そんな体験を繰り返すうち、ぼくは自分から人に話しかけることができなくなる。もちろん人から話しかけられれば会話をすることはできる。だが顔見知りになってもいつまでも自分から声を掛けてこないぼくみたいな相手に話し掛ける人間はだんだんと数を減らしていく。

 でも今日、ぼくは比較的まともに会話をこなす。朱音さんとも、さっきエレベーターの中で出会った芹香とも。

 ……とすれば何とかなるかもしれない。

 なので――

「藤原さんって、どこか病気なわけ?」

 と、ぼくの目の前まで歩んできた早紀に自分から話しかける。早紀がその言葉に怪訝そうにぼくを見つめる。早紀の表情は訝しげ。だが、その瞳の色自体は透明で澄み切っている。

 早紀に見つめられたことで、ぼくの全身が喜びに溢れる。

「……」

「あ、いや、答えたくないんなら、答えなくたっていいんだけど」

「母が」

「えっ、何だって? お母さんが」

「ここにいるから」

 そうして、ぼくからすっと目を逸らす。

「それってどういう?」

 しかし、ぼくはその先の言葉を紡ぐことができない。何故なら早紀が涙を流していたからだ。

「ごめん。なんか悪いこと聞いてしまったようだね」

 慌ててぼくはそう取りなす。

 すると――

「いいえ、菅谷くんのせいじゃないから」

 早紀の声にはまだ涙が混じっていたが、口調はいくらか元に戻ったように思える。

「ところで、菅谷くんの方は平気なの?」

「……」

 早紀の質問の意味がわからない。すると、その混乱に乗じるかのように悪夢の光景が去来する。

 うっすらとした悲鳴が聞こえてくる。ぴちゃぴちゃという音を伴い、悲鳴が耳を引き裂いていく。液体のようにドロドロと粘つきながら外耳を辿り、ぷるんと身体を震わせて内側で振動を増し、やがて衝撃が鼓膜に達して爆発する。魔がその姿を露にする。バケモノ、怪物、天使、裏モードの、紅い、碧い、黄色い、黒い、最凶の黒天使が顕れて……。

 すると――

「痛いわ! 菅谷くん、痛い!」

 早紀が大声で叫んでいる。見ると、ぼくは早紀の両腕を自分の両掌で鷲掴みしにしている。脳の中を信号が鋭く貫いて両手の感触が通常に戻り、眩暈がする。クラッと……。その感覚は柔らかい。

「あ、ああ、ごめん!」

 ぼくは仰天して、慌てて早紀の上腕から掌を離す。早紀はしばらく無言でいたが、やがて踵を返すとぼくの傍から足早に立ち去っていく。

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