4 エレベーターの中で

 朱音さんが病室を去ってしばらくすると朝焼けが瞬時空全体をキラリと染め上げ、去っていく。

 まだ朝だ。どうしようもなく、朝!

 これからどうしよう? もう一度眠る気はまったくしない。

 朱音さんの話によると、ぼくはどうやら事故に巻き込まれたらしい。それで、ふと思う。それが悪夢の原因かもしれないと。 

 だが、それはないな……。

 即座にぼくは自分の考えを否定する。ただし確かめてみたいことがある。そこでベッドの上で半身を起こし、体調を確認する。特に痛い部分はない。それでベッドから降りるためにスリッパを探す。スリッパはベッドの下に隠れている。足を伸ばして引っ張り出し、履くと、ベッド脇のクローゼットに向かい、中からガウンを取り出し、羽織る。ついでアコーデオンカーテンを開け、廊下に出、部屋を振り返る。個室といっても広い部屋ではない。わずか数歩で窓まで行き着いてしまう。ついでこの部屋は何階にあるのだろうかと思い、病室番号を確認。窓外の景色から、そんなに低階ではなかろうと漠然と思う。

 病室を示すプレートには大らかな油性ペン文字で1112号室『菅谷幸弐』と記されている。それで、ここがおそらく十一階だろうとわかる。けれども名前が違っている。ぼくの名前は宏司。幸弐ではない。菅谷宏司。ぼくには兄も姉もいない。少なくとも、ぼくに親しいこのぼくにはいないはず。

 夜勤開けのナースステーションに人影はない。給湯室にお茶を汲みにでも行っているのか。それとも他の用事の最中だろうか? 看護婦に咎められることなく廊下を進み、エレベーター乗り場に向かう。通り過ぎたトイレの奥から、くぐもった複数の咳の音が聞こえてくる。すべて男の声だ。

 エレベーターの大きな扉の前に立ち、逡巡せずに降階ボタンを押す。二連のエレベーターのうち、そのとき十五階のランプを点滅させていた方のエレベーターが反応する。ほどなく到着し、扉が開く、

「あっ!」

 乗り込もうとし、ぼくは思わず叫んでしまう。何故かというと人が乗っていたからだ。その人物は女性で年齢は高校生くらい。しかも加藤小百合にそっくりだ。

「どうかされました。乗らないんですか?」

 そっくりさんがぼくに問う。

「ああ、乗ります。乗ります。申しわけない」

 そう言い、ぼくが慌ててエレベーターに駆け込む。階数ボタンを見ると、すでに一階部分が明るくなっている。それで『閉』のボタンを押し、扉を閉める。心臓がバクバクと喘いでいる。

「きみは?」

 照れ隠しからか、そんな言葉が口をつく。

「わたし?」

 彼女が答える。病院にいるので顔色が悪い。それは仕方ないが、彼女からは清らかな雰囲気が漂ってくる。髪がストレートで長いのも、その髪に大きなリボンが付いているところも、ぼくの知っている加藤小百合にそっくりだ。背は低くて一五〇センチメートルくらい。見た感じだと腰が細い。病人用のガウンを羽織っているが、サンダルはさすがに女の子らしいデザインのものを履いている。その先にチラリと覗く足首が繊細。

「えーっと、きみ、まさか苗字が加藤さんじゃないよね?」

 続けて、そう尋ねてみる。エレベーターは七階を通過中。

「加藤さんって、何故?」

 そう答える彼女の柔らかなアルトの声が戸惑う。返答する言葉が見当たらないといった風情。

 なので――

「きみと似ている知り合いがいるんだ。だから姉妹かなと思ってさ」

 口にした内容自体は間違っていないはずだが、何とも間抜けな説明だ。すると彼女がクスリと微笑み、

「いやだあ、ナンパしないでくださーい」

 そう答え、わずかに頬を膨らませる。なるほど、そういう意味にも取れる発言か? ちょっと失敗。

「いや、嘘じゃないんだよ」

 ぼくが必死になり、彼女の誤解を解こうと努める。

「本当に中学の頃の知り合いにいたんだ」

 彼女の表情は訝しげだ。エレベーターは三階を通過中。

「でも、まあいいわ。信じてあげる」

 大きな目をクリクリとさせ、ぼくを見つめて彼女が言う。

「でも、人に名前を聞くときは、まず自分から名乗らないとね」

 道理を説く。

 だから――

「ああ、そうだよね。ごめん、ごめん。ぼくは菅谷宏司といいます。この上の十一階の病室にいます」

「十一階……」

 そう呟き、彼女が少し顔を引き攣らせる。でも、それは一瞬のことで……

「偶然ね。確かにわたしは加藤といいます。加藤芹香。でも、それ以上は秘密……」

 芹香が朱音さんとは別種の瑞々しく甘い香りを発散させる。

「ああ、全然別にそれは構わないよ。以後、よろしく……」

 さっきの言葉から芹香が拒むだろうと思ったので、ぼくは握手を求めない。やがてエレベーターが一階に到着。ぼくが先に芹香が次にエレベーターを降りる。

「イギリスではエレベーターのことをリフトと呼ぶらしいよ。そして日本語のリフトの方は現在ではスモール・フレイト・エレベーターと言うらしい」

 芹香との別れ際、ぼくはたまたま知っていたどうでも良い知識を披露する。芹香は関心を示さない。

「じゃあ……」

 手を振り、ぼくが芹香と分かれ、病院エントランスに向かう。彼女が一階に下りてきた理由はわからない。ぼくに軽く会釈を向けると、ぼくとは正反対の方角に去っていく。

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