3 見知らぬ女
「ああ、やっと目を覚ましたか?」
ぼくが目を開けるとすぐ見知らぬ女が口にする。それには構わず、ぼくは別の言葉を発している。
「長いこと眠っていましたか?」
「いや、そんなことはないよ」
女が答える。その顔はまだ真上からぼくをじっと見つめている。女はベッドの足元から見て左側の先端部分に立っていたので、真上といってもその顔はぼくから見て九十度左に傾いている。パールの混じった紅い口紅が若干はみ出すように塗られた唇が肉感的だ。目はパッチリと大きく見えるが、もしかするとそれは化粧のせいかもしれない。ケバくなるほど派手ではないが、かといってすっぴんに近い薄化粧というわけでもない。アイラインがやけにくっきりしている。そして甘い、熟れた果実のような匂いがして……。
「ん、どうした?」
最初に言葉を発してからすぐに黙り込み、ついで自分の顔をしげしげと覗っているぼくを不審に思ったのか、彼女がそう訊く。黒に赤いメッシュの入った髪の毛はどちらかといえばショートで一部ディップしてあるように見える。
「ワタシの顔に何か付いてるか?」
そう言い、長く細くしなやかな動きを見せる清らかな指と薄くて平たい華奢な掌から構成された両手を左右からゆうるりと頬に当て、それを頬骨から顎のラインにかけてゆっくりと触れ下ろす。
「いえ……」
ぼくが答える。
「なんでもないんです。ただ、お化粧が……」
「ああ、濃いっていいたいんだろう」
ぼくの言うことなど端からお見通しだという表情を浮かべ、彼女が答える。少しだけ口調が投げやりだ。
「怒りましたか?」
恐る恐るぼくが彼女に訊ねる。心臓が急にドキリとする。
「いや、別に……」
投げやりというよりは物憂げに彼女が答え、ふうと溜息をつく。
「きみは事故に巻き込まれたんだ。人生は巡り合わせだから、それひとつを取って不幸とは呼べないが、幸運でなかったことだけは確実だ」
確信を込めた口調。
「事故、ですか?」
「そう。……憶えてないか?」
ぼくは記憶を手繰る。だが、そのサルベージの網に何も絡まってこない。数回試してみたが、結果はすべて同じ。
だから――
「憶えていません」
素直にそう答える。すると彼女の表情がわずかに翳る。
「あ、でも……」
急にその関連性に気づき、ぼくが問う。
「あなたはぼくの怪我を治してくれた先生ですか?」
「怪我を治してくれた先生?」
彼女がぼくの言葉を繰り返す。先程の不審な感じが戻ってくる。
「違いましたか?」
不安に駆られ、ぼくが呟く。
すると――
「残念ながら、キミの怪我を治したのは別の人間だよ、けれどもキミの担当であることだけは間違いない」
謎めいた表情を浮かべ、そう答える。視線がぼくの上から退けられる。それにともない、ぼくの視線も彼女の顔から外れていく。長い首、後れ毛のある項。服の襟が白く、それは白衣で、ついと視線が流れた先の胸元は全体的に華奢に見える顔や手や肩の造作を裏切り、思ったよりも豊満だ。その左胸のポケットの縁にネームプレートが貼り付けられ……。
『南朱音(みなみ・あかね)』
ふうん、そういう名前なのか? ぼくはそう感じ、彼女の名前を口の中で唱えてみる。「みなみ・あかね」「みなみ・あかね」と繰り返す。するとたちまち、それはぼくの中で馴染み深い名前に変わる。たとえば藤原早紀のように、例えば加藤小百合のように……。 例えば……。
「ところで、キミさ?」
不意といった感じで朱音さんがぼくに問う。
「はい?」
思わず背筋を伸ばし、ぼくが返答する。彼女の名前から別の女性たちの名前を連想したことが悟られたようで恥ずかしかったからだ。
「なんでしょう?」
ぼくが付け加える。
「不具合はないかな?」
「不具合ですか?」
「そう。身体のことでも設備のことでも何でもいいが……」
しばらく考え、ぼくが答える。
「夢を見ます」
「夢? どんな……」
「えーと、悪夢です」
「そう、悪夢? で、内容は?」
「内容は……」
それを口にすることは憚られる。最初の直感と繋がっている。あの悪夢の中の不思議にキラキラと輝いた空間で姿の見えない色彩の怪物に陵辱されていた少女。あの少女が朱音さんでもあったからだ。もちろんここ、ベッドサイドに立つ現実の朱音さんと名前さえ知らない夢の中の少女とは別人だ。だが、ぼくには確信がある。あの少女が時空の歪みか他の原因でこの現実を訪れるとき、必ず朱音さんに宿るのだと。朱音さんが少女の巫(かんなぎ)なのだと……。そして、ぼくが彼女を襲い…… あああああ……。
「いや、言いたくないんなら、言わなくていいよ」
ぼくが口を閉ざしたままなので、やがて諦めたように朱音さんが呟く。再度溜息を吐く。
「ワタシにだって、言いたくないことはあるからね」
窓のところまで歩いき、白いカーテンをサーッと開ける。カーテンが開けられ、窓の向こうが露になる。内側から爆発するような光。鮮やかに輝く血の色に染め上げられた真っ赤な朝の空が拡がっている。
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